『踊る大捜査線』君塚良一監督が語る、テレビの現状を描いた“喜劇”とは?

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大ヒットシリーズ『踊る大捜査線』を手掛けた君塚良一の監督最新作『グッドモーニングショー』が、10月8日より全国公開。このほど君塚監督にインタビューを行い、朝のワイドショーを舞台に描いたコメディ作品に込められたテーマや、今のテレビが向き合うさまざまな問題、そして、脚本を手掛けた自らが「本を越えた」と絶賛した中井貴一と濱田岳が繰り広げた“リアルな芝居”について語っていただいた。

本作は、朝のワイドショー「グッドモーニングショー」のメインキャスター澄田真吾(中井貴一)を中心に描いたオリジナルコメディ。澄田が妻・明美(吉田羊)と息子の言い争いに巻き込まれ、職場ではサブキャスターの小川圭子(長澤まさみ)に“身に覚えのない交際”を発表しようと迫られ、プロデューサーの石山聡(時任三郎)からは番組の打ち切りを告げられるなど気分は最悪。さらには、爆弾と銃を持った立てこもり事件に名指しで呼び出され、武装した犯人・西谷颯太(濱田岳)を相手にマイク一つで対峙することに。まさに踏んだり蹴ったりとなった澄田の一日が描かれていく。


<インタビュー>

――この作品を作り始めたきっかけを教えてください。

フジテレビの映画部の人と次の作品について話し合っていたんです。そうすると雑談の内容が「どうしてテレビって最近文句を言われるんでしょうとか?」「どうして視聴率が取れないんでしょう?」とかテレビのことになっていく。僕自身も構成作家やドラマの脚本を書いて長いことテレビ業界にいるけど「どう思います?」と聞かれても答えは出ないんですよ。ネットのせいだとも、テレビがつまらなくなったとも思わない。今の時代、もっと複雑なモノをテレビメディアというのは抱えているのかもしれない。そこで真剣に自分に問いかけるという意味を込めて“テレビとはなんぞや?”をちゃんと考えようと思いました。

――どうしてワイドショーを舞台に選ばれたのでしょうか?

一番テレビ的な番組が何かを考えたら、生放送でやっている朝の情報番組だなと思ったんです。昨日から今日にかけて起きたニュースを扱って、他局も含めて基本的に同じ素材でやっているわけですよ。それを演出して面白くしていく。しかも、一度放送したら再放送やDVD化があるわけでもないから、毎日新しいモノを作っては消えていく。これこそ“theテレビ”の姿だと思いました。取材をはじめてみると、サービス過剰になっている、視聴率のためにはニュースでさえ面白おかしくやらなくてはならない、世界的な問題が起きても芸能ニュースを先にしてしまうなど、それぞれがポリシーを持ちながらも悩みを抱えていて、その上で視聴者の声も気になるなど、いろんな要素があった。それでワイドショーを舞台に人間模様を描いてみようと思いました。

――これまでにワイドショーに携わったことはあるのでしょうか?

すっかり忘れていたのですが、20代の頃は萩本欽一の元で構成作家をやっていて、朝の情報番組『グッドモーニングジャパン』の構成を3ヶ月だけやったんです。というのも僕がとてつもないことをやらかしちゃったので3ヶ月で終わっちゃったんですけどね(笑) 当時は日テレの『ズームイン!!朝!』が一人勝ちしていたので、その裏で視聴率を取るために何でもチャレンジしていたんです。一部の間では伝説になっているそうなのですが、毎日日替わりのランキングをやっていて、その中で「今週のAVランキング」をやったんですよ。当然、テレビには映せないから顔以外ほとんどモザイクかけて、それでも“ヒィヒィハァハァ”な感じはちょっと見せたりして(笑) それをやったら当然すごい怒られた。でも、3~4週やってそこだけ視聴率は上がったんです。と言っても、忘れていたくらいだから、その経験がこの作品に生きているかというと、そうではないんですけどね。もしこの経験を本の中に入れていたら絶対に「AVランキングやります?」「何言ってんだバカ!?」とか書いているはずなんですよ。でも気がつけば映画のタイトルが『グッドモーニングショー』になっていて、人生面白いものですね。

――家庭の事情や過去の出来事、女子アナとの関係、そして犯人と絡み。このストーリーに行き着いたきっかけを教えてください。

テレビがサービス過剰になっているとか、暴走気味だとか言われて、制作側も視聴者からの声を恐いとか、いじめられている感が漂っていると思うんです。ある人が「たった一つの電話の背後に、何万人もいると錯覚してしまうときがある」と言っていて、そういう言葉に過敏になってしまうと。番組を見ていただけているのに同時に文句も言われている。それで今回、主人公がなぜか周りに責められている、いじめられている感を出していけば、テレビをベースにした物語がフィットしていくなと思いました。

――君塚さん自身もテレビはいじめられ過ぎていると感じることがありますか?

最近はテレビのど真ん中にいないので、個人的な感覚になってしまいますが、まずは絶対的に言われやすいメディアであることは間違いない。映画や文学は見たいから手に取ったり劇場に足を運んだりして、それを見て完結する。だけど、テレビは番組が終わると、次に始まる番組も自動的に見せられてしまう。本来であれば自分が拒否すべき番組であっても目にしてしまうわけです。見ていない映画に文句言う人は基本的にいないんですよ。だけど、テレビの場合は好む好まざるに関わらず見られていることも事実です。もちろん昔からテレビへの批判はありましたが、現代はその言葉が拡散されて実態より大きくなっている部分もある。さまざまな要因があって言われなき批判も受けているのかなと思います

――テレビを作るのが難しい時代になった?

番組制作の現場も僕がやっていた時代より、20~30代の若いディレクターとかスタッフたちが、組織の中の駒になっちゃっていて、新しいことができなくなっちゃっているとは思います。テレビはもともと変なことを作るメディアとして生き残ってきたのに、突出した企画を出しづらい状況にはなってしまった。今は新しいことをやっても視聴率のことがあって待ってくれない。番組が育つのには時間がかかるんです。昔は半年と言われていたけど、今は、あるアイデアが完成する前にちょっとケチ付けられちゃう感じがあって、3ヶ月くらいしか待てない。面白いことでも数字がついてこなかったり、コンプライアンス的に少しでも問題があったりすることはやるなと言われる。そうするとかつて先輩たちがやってきたノウハウを使うだけになってしまい、安全策ではあるけど、一方で古いと言われてしまう。すごい矛盾を抱えていると思います。

――そんな中、劇中でさまざまな角度から矢面に立たされる澄田役を中井さんに任されたのはどのような思いがあったのでしょうか?

いじめられるのが上手い方って、海外で言うとウディ・アレンみたいな方がいるじゃないですか。それで日本でウディ・アレンみたいなお芝居の上手い俳優さんを考えたら中井貴一さんという感じがしたんです。僕の中の演出の言葉で言うと「中井貴一いじめられる」というのがあったんです。だからどんどん防爆スーツを着せられて、女性からもよくわからないけどガーッてやられちゃう。テレビとかメディアが言われていることを象徴するキャラクターにできると思いました。

―― 一方で、現代の視聴者の声をある種凝縮したのが、濱田さんが演じる犯人・西谷になりますよね?

この作品のテーマは「テレビメディアとはなんぞや?」というのと、もう一つが「対話」なんです。昔から投書などで視聴者の声は拾ってきているので、僕らもたった一枚の葉書で全ての疲れが取れたこともあるし、逆に、精神的に大打撃を受けたこともあります。それが今は拡散されるようになった。当時は僕らと投書してくれた方との対話だったのですが、今は同時に他の人も目にするようになって対話が成り立たなくなってしまった。親子、学校、会社、ネット上もそうですが、僕の中でほかにもいろんな思いがあって、今や対話は死にかけていると思っているんです。本来、この手の事件モノを書くときは、どちらかの説得によって改心するというのがセオリーですが、僕の中では、中井さんが説得して、濱田くんが「そうか僕がいけなかった。気持ちをわかってくれたならもう良いです」と言って銃を置くという芝居をしてもらうことは、今の時代にそぐわないと思った。かつてはできたかもしれないけど。だから、対話が成り立たないようにしてくれと二人にお願いしました。

――中井さんと濱田さんが作り上げた立てこもりシーンの臨場感と緊迫感はすごかったです。

濱田くんには演出上「とにかく嫌なおじさん、お父さんが、偉そうなことを言っていると思ってくれ。何を言われてもイラついてくれ、濱田くんが演じていてカッとなったりしたら、台詞を切っても良い」と伝えました。だからいくつかのシーンは中井さんがまだしゃべっているのに「うるせえ!」と怒鳴るなど、脚本とは違う流れになっているんです。あれはリアリティがあってすごかった。中井さんには「自分の息子は説得できないけど、こっちはできるかもしれない。テレビで視聴者が見ているからできるだけ頑張ってくれ」と言ったんです。「濱田さんが銃を置いたり泣いたりしても良いから」って。ところが濱田さんが会話を拒否するから、中井さんもどんどん興奮していった。最終的には怒鳴りあいになるのですが、あそこは台本のイメージを越えたところですね。つまり、二人の演技によって別の興奮というか真実が見えてきた。声を大きくして圧力をかけるというのは、それはもう対話ではないんですよ。本来、対話は成立させなくてはいけないのだろうけど、この作品で描かれた二人のやり取りが現代の真実なのかなと思っています。

――時任さんも真に迫るモノがあると仰っていました。

本当にすごくリアルですよ。中井さんは中井さんが積み重ねてきた感性で、濱田くんは濱田くんの年代だからこそ持っている感性でやっているし、二人の感性のぶつかり合いですよね。それによって生まれたアドリブの台詞もたくさんありました。だけどやっぱり“違う世代がわかり合えました”というファンタジーにはならなかったということです。

――そして、最後には視聴者投票を使った“ある展開”が待っています。あれをテレビ業界で働いていた人が描くのは勇気のいることではないのかなと思いました。

そうですね。基本的には創作として伏線を張り、それを回収していくことになるのですが、この作品でやったような使い方をするのは、本来はとても大変なことです。ワイドショーである『グッドモーニングショー』の視聴者投票は遊びで使っているだけであって、あれをもし報道番組が支持政党の調査などで使ったらとんでもないことです。もちろん遊び心のある視聴者投票にしたって、やっていいことではありません。テレビ局の人間に台本を監修してもらうと、やっぱりあのシーンについては「これをやったら全員のクビが飛んでしまう」と言っていました。

――本当に攻めたシナリオだなと思いました。

完全にアウトですからね。物語の中の機能として使っているだけなので、あそこにフォーカスして脚本を書いたら、そのあと社長が国会に呼ばれて……とか、さらに1時間はいけますよ(笑)

――自分で聞いておいてなんですが、ここまでお話を伺っているととても社会派な作品に聞こえます。ですが映画を観るとテイストとしてはコメディです。この物語をコメディとして演出したのはどうしてですか?

朝の情報番組の取材を重ねていくうちに、作品で描いたように、調子に乗ったり、とき暴走したり、視聴率のために物事を大げさに言ったりしているのが見えてきたんです。だけど、同時になんとか視聴者に伝えようと本当に頑張って努力している。その姿を見て「これは喜劇だな」と思いました。『踊る大捜査線』のときに、刑事を取材したときにも「張り込み中にデートだから帰っちゃった」ということを聞いたときも「これ喜劇じゃん!」と思った。あのときも基本的には縦割り社会の警察の構造などを描きつつもコメディのテイストにしました。今回も本人たちは大まじめだけど、端から見ていると笑えちゃう。だからコメディというより喜劇というのが正しいのかもしれないですね。

――澄田キャスターを取り巻く環境はもちろん、そのほかの番組スタッフたちの番組作りにかける姿勢も、みんな真剣に取り組んでいるのだけど、真剣だからこそ可笑しかったです。

澄田がいじめられるというのもそこですよね。知らないうちに巻き込まれていって、自分の意思に反してどんどん大事になっていく。他のキャラクターも特に意識していないのに、客観的に見るとクスッと笑える。

――中井さんには「いじめられる」というテーマは伝えられたんですか?

そういう言い方はしませんでしたけどね。テイクが終わる毎に「ウディ・アレンみたいで格好良いですね!」とか言っていました。でも、後半になるとだんだんわかってきたみたいですよ。どうも俺はそういうリアクションを求められているなって。それで中井さんはやっていけちゃう方だからすごい。日本を代表する役者さんだけど、喜劇で思いっきりやっていただけて嬉しいですよね。

――話題は大きく変わるのですが、東日本大震災を経て『遺体 明日への十日間』を作られた際に「エンターテインメント作品を作っている場合ではないと感じた」と仰っていました。そこから、この作品を手掛けるにあたり、何か新たな思いがあったのでしょうか?

この作品を手掛けるまでに3年かかったのはそこにあります。今でも3月11日やお盆の時期になると東北では上映されている劇場がありますし、上映会などもやってくれています。これはセルフプロデュースの問題なのですが、震災があったから『遺体』という映画を作ったのだけど、その後すぐに犯罪モノを作りますというのは僕の中であり得なかったんです。それは取材をした遺族の方や被災者の方に「素材として面白いから作った」と誤解されるのだけは避けたかった。それを解決するのは時間しかなかった。一方で、新しい作品を作ろうと思うと、来るオファーは震災や原発をテーマにしたモノばかりだった。もちろん僕は生涯をかけてあの作品に責任を持っていくのだけど、それをまたやるのもどうなのかと考えているうちに、リーディングプロデューサーチームが「もちろんあるところの社会は見つめつつも、今度はパッと楽しいモノを作りましょうよ」と言ってくれた。それが2年経った頃で、きっと時間が経ったことも手伝って、今回の作品に挑むことができました。

――この作品が完成されたときはどのような思いでしたか?

実は、僕の監督作品として喜劇は初めてなんです。いつもは本広監督とかが僕の本を上手く描いて笑わせてくれていたのだけど、お笑いの演出というのは難しかったですね。できあがってゼロ号試写や初号試写をやってもウケやしないんです(笑) みんなある種の品定めをしているし、スタッフは自分のパートを観ていますから。本当に一般観客の前に出したときに笑ってもらわなくちゃいけないから、未だに感触は掴めていないです。

――喜劇としてどのようなことを意識して作られたのですか?

本広克行監督にいろいろなアドバイスをもらいました。現場でスタッフがウケていても劇場で必ずしもウケるとは限らないと聞いていたわけです。それはどうしてかというと、スタッフはリハーサルを重ねているから本番を迎えるわけですが、何度かリハーサルして、3回目に偶然テーブルなどに膝をぶつけたらスタッフは笑うんです。それは前の2回がフリになっているから。最初からそのシーンで膝をぶつけて「イテテ」とやってもウケない。そういった間違いがコメディでは起きがちだと。それで本広監督に相談すると「いろんなパターンを撮っておいて、編集マンに初めて見てもらって、一番面白いヤツを使ってもらう」と言うんですよ。それは監督としてどうなのかなと思ったけど、本広監督は「僕は『踊る』では絶対にウケなくちゃいけないところはそうやっていた」と言う。それで、そういうやり方もアリなんだと考え直しました。

――俳優さんたちにとっても難易度が高そうですね。

中井さんとも話していたのですが「こういう喜劇みたいな作品の塩梅が一番難しい」と。実際に一生懸命生きている人がちょっと間違えたり、ちょっと考え方がずれていたりするという、そのリアリティを出すのは中井さんも苦労されていましたね。ただ、中井さんは腕のある方だから、何パターンも撮っていないんです。彼はスクリーンに映ったときにどれくらいの塩梅になるかわかっているから。それも中井さんが自分の中で考えてきて、このシーンはやり過ぎない、このシーンは顔を作り込む、このシーンはオーバーに、何もしなくても空気が面白いとか、そういうのを全て判断されていて流石だなと思いました。

――中井さんに君塚監督の印象を仰っていて、今作で監督としてやっていくと宣言されたのかなと仰っていました。

君塚組はこの3~4作品がほとんど同じスタッフなんです。だから僕がどうしたいのかというのが全部わかっているので、僕は全体的なことを言うだけで、カット割りも撮影監督がやるし、照明もやってくれるし、何も言わなくてやってくれる。いろんな出演者の方々も「良いチームですね」と言ってくれました。きっと、中井さんは、スタッフやキャストに任せられる監督になったということを仰っていたのかもしれないですね。

というのは、監督として自分の色を出したくなるけど、それぞれのプロの才能に任せてやっていくことも大事だということが徐々にわかってきました。だから、今回はマネージメントみたいな感じなんです。スタッフ、キャストにできる限り良い環境を作ってあげて、そこで才能を発揮してもらう。中井さんはいろんな巨匠やベテラン監督などの元でやってこられていますから、それができて本当の意味で監督と言っているのかもしれない。本当に優れたスタッフに出会えて、こうやって参加してくれてありがたいです。

――最後にメッセージをお願いします。

今回は身近なワイドショーを舞台にして、とにかく笑えて、ハラハラドキドキできるモノにしたいと思いました。それは映画の原点だと思うんです。映画を観ている間は、この映画の世界に振り回されて、出演者の人たちと一緒に笑ったり泣いたりして、心から楽しんでいただきたい。それで見終わったあとにテレビというメディアって何だろう? マスメディアって何だろう? とか、そういうことを少し感じて貰えたらありがたいかなと思います。

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