乳がんから生還したモデル・園田マイコ。その後の人生

公開: 更新: テレ東プラス

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2008年に医者から「乳がん」との診断が下されたモデル・園田マイコ。乳房温存手術を選択し、抗がん剤、放射線、ホルモン療法、分子標的治療薬などを行い、5年におよぶ壮絶な闘病を終えた。

乳がんの治療の前と後で、彼女の人生はどう変わったのだろうか?発見から10年以上が経った今、人生のどん底に突き落とされながらも、それに打ち勝った彼女の生き方に迫る。

がんの手術から11年。それでも年に1度は検診を

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──今年で手術から11年が経過したそうですね。その後の再発もなく順調でなによりです。

園田:2008年に乳がんが見つかり、2009年に手術をしていますので、今年で11年ですね。昨年は節目となる10年でしたが、先生より「これで一旦すべての治療は終了です」というお言葉を頂戴しました。とはいっても、卒業できた嬉しさの反面、ずっと病院に通っていたのに、「もう来なくていいよ」と言われるのもなんかちょっと不安で......。私の方から先生に「1年に1回は検査してください」ってお願いしちゃいました(笑)。

──「来なくて大丈夫!」というお墨付きをもらったにも関わらず、「行ってもいいですか?」という心境になるものなんですね。

園田:やっぱりちょっと不安ですよね。乳がん経験者と話をすると、やっぱり皆さんそう思うみたいです。絶対再発しないということはありませんし、「念のため!」という気持ちが強いので、私も年に1度は検査しようと思っています。

まさかの落語家へ入門──元義父が桂小金治師匠

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大病を克服した園田さんは、意欲的にさまざまなことにチャレンジしている。そのうちのひとつが落語だ。

──随分前から落語がお好きでいらっしゃることは知っていましたが、まさかご自身が落語をされるとは思ってもみませんでした!(笑)

園田:実は元夫の父が桂小金治さんなんです。なので、落語はとても身近なところにありました。元義父の高座を観て来ましたし、その他たくさんの方の高座も観ています。ただ、自分が演じる側になるとは思っていなかったです(笑)

私が落語家として稽古をつけていただいたのは、2017年4月のこと。六代目・三遊亭圓窓師匠より『深沢亭講女』の名を頂戴いたしました。私の初高座はその半年後で、お酒の小咄を5つほど演りました。

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あの桂小金治師匠の落語を間近で観て来た彼女。さすがに筋がいいようで「当時、中学生になったばかりの若い姉弟子にも『声が通って、演じ分けてますね』なんて褒められて」と笑いながら述懐していた。

変化したことは「人に甘えられるようになった」

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乳がんになる前は、落語は観る側だった園田さん。しかし、闘病を終え、体力が戻って来た彼女は、演じる側をめざすほど心身共に元気になった。大病は考え方に大きな変化をもたらしたのだろう。あるインタビューでこう語っている。

乳癌の経験から変わったことは、人に甘えられるようになったこと。「もともとは頼るのが苦手だったんです。でも、誰かがいてくれるって本当にありがたい。やっぱり人と人との関係が大事だと病気になって改めて思います」

「毎日を丁寧に私らしく暮らして、人生が終わる時に、この人生楽しかったなと思いたい。こんな風に考えるのも、乳癌になって死を近く感じた経験のおかげかもしれません」
~POLA TALKER'S TABLEより~

"モデル"というカッコいい世界にいるにも関わらず、マイコは弱々しくなった"カッコ悪い自分"について、隠すことなく赤裸々に語る。

がんを宣告された時の慟哭、離婚した元夫との関係性、思春期の息子の向き合い方、病気により仕事を干されるかも知れない不安......。そんなカッコつけないカッコ良さこそ、園田マイコというモデル、いやひとりの女性の魅力だ。

彼女が語る言葉は多くの人の共感を得、多くの女性たちの心を救い、今では"女性の味方"として慕われている。病気になったことは不幸なことかもしれない。しかし、不幸なだけではないということを証明してくれている。これからも、彼女の活躍が多くの女性たちを力づけることだろう。

【プロフィール】
園田マイコ/Maiko Sonoda
1969年生 東京都出身。高校卒業後よりモデルとして活躍。39歳の時に乳がんと診断され、温存手術を受ける。その経験をもとに『モデル、40歳。乳がん1年生。』(ベストセラーズ)を執筆した他、ピンクリボン運動の講演活動なども精力的に行っている。

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