スパイ疑惑をかけられながらも...中国”死の土地”で2000万人の飢えを救った日本人

公開: 更新: テレ東プラス

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世界で活躍する知られざる日本人を取材し、ナゼそこで働くのか、ナゼそこに住み続けるのかという理由を波瀾万丈な人生ドラマと共に紐解いていく「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」(毎週月曜夜9時)。「テレ東プラス」では、毎回放送した感動ストーリーを紹介していく。

"アジアのノーベル賞"を受賞した日本人

今回注目したのは、中国で多くの人々を飢えから救った日本人。中国北部、モンゴルとの国境に位置する、恩格貝(おんかくばい)。かつて大飢饉で2000万人以上の難民を生み「死の土地」と呼ばれたこの地を蘇らせ、飢えに苦しむ貧しい人々を救った日本人男性がいた。

その人物は、マザー・テレサやダライ・ラマにも贈られた"アジアのノーベル賞"とも呼ばれるマグサイサイ賞を受賞。日本人ながら銅像まで建てられた。これは中国史上初めてのこと。しかも生前に銅像を建てられたのは、毛沢東と、この日本人男性の二人だけだという。

その日本人とは、遠山正瑛さん。遠山さんが成し遂げた歴史的偉業とは、どのようなものだったのか?

1906年(明治39年)、現在の山梨県富士吉田市に生まれた遠山さん。父は戦地に駆り出され、母が女手一つで大家族を養っていた。収入は乏しく、食べ物にも事欠く貧しい生活。

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母を助けるため、子供の頃から山菜やキノコを採っていた遠山さん。集めた食材を使った食事で笑顔になる家族を見て、皆をお腹いっぱい幸せにするためには農業こそが大事だと思うように。

中学から猛勉強を始め、京都大学農学部に合格。卒業後は京大で助手として勤務していた遠山さんだが、28歳の時に人生を変える出来事が。外務省から、中国の土地と農業の調査研究留学の話が舞い込んだのだ。日中関係が一触即発の状況にある中、中国のとある村へ留学した。

中国で困窮する人々を目の当たりに

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留学先で見たのは、炊き出しのお粥一杯を求め、人々が数十キロの行列に並ぶ光景。当時、中国ではゴビ砂漠が農地を侵食し、作物がとれず困窮。2000万人以上が餓死していた。

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この光景に呆然とする遠山さんに、親子が声をかけてきた。

「この子は15歳だ。一生あなたのそばでタダ働きするから30円で買ってくれ!」

父親が幼い子供たちの飢えをしのぐために、わずか30円(現在の3万円)で娘を売ろうとしてきたのだ。遠山さんは「すまない!私にはできない!」と断るが、その出来事はずっと心に残ることに。

砂漠をなんとかして、人々を救いたい......。自分に今できることは何か。出した結論は、砂漠を緑に変え、食べ物を作ることだった。しかし2年後、日中戦争が勃発し退去命令により帰国。戦争終結後も国交はなく、中国へ行けなかった。砂漠の農地化を夢見て35年が過ぎ、農学者として勤務していた大学を定年退職。その翌年、思わぬ転機が訪れる。日中国交正常化だ。

遠山さんは家族を日本に残し、私財を投げ打って単身中国に渡った。現地へ向かうと、かつて村があった場所はゴーストタウンに。中国政府も砂漠化を食い止められず匙を投げたという。

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砂漠でも水があれば作物は育つ。まず始めたのは水源探し。四国ほどの広さがある砂漠で、毎日数十キロ歩き回って砂を掘り続ける。日中は40度を超える中、手作業で砂を掘り数ヶ月間探し続け......ついに水源を発見!

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砂漠に植えようとしたのは葛。根にでんぷんを含み、和菓子などに使われる植物だ。葛は成長が早く、葉は1年で20メートル育つ。遠山さんは、鳥取砂丘で砂漠農地化の研究をしており、葛を植えた鳥取砂丘の砂地が農地へと変わり、ラッキョウなどを作れるようになったという実績があるのだ。

水源を発見後、8年かけて日本で寄付金を募り、葛のタネ約7000万粒を収集。そして、協力スタッフと共に再び中国へ。この時遠山さんは80歳。砂漠の農地化を決意して50年、ようやく作業が始まったのだ。

度重なる試練にも屈しない

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葛を植えていると、地元住民がまさかの妨害。スパイ疑惑までかけられてしまう。国交が回復したとは言え、反日感情は根強い。それでも葛が成長し緑の草原になれば理解してくれると信じ、3000本の苗を植え終わった。だが翌朝、信じられない光景が!

なんと一晩で苗が全て無くなっていたのだ。原因は、放牧で暮らす住民が放していた羊とヤギ。苗木を食べさせないで欲しいと土下座して住民に訴えるも、「お前の土地でもないのに勝手なこと言うな!」と取りつく島もない。

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そんなある日、ポプラの木が目に止まった。ポプラは成長が早く、10年で成木になる。森ができれば、砂漠だった土地は水を十分に含み、畑を作れる。1メートル以上に育てたポプラの挿し木なら、羊やヤギに葉を食べられることもない。

5年で100万本植えると言う目標を掲げた遠山さん。1日560本のノルマをこなすも、ポプラが枯れてしまう問題が発生。実は、ポプラは大量の水を与えなければ育ちにくい。十分に水を与えられず、根が地下水脈まで伸びる前に枯れてしまったのだ。

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砂地に水分を留める方法がないものか? 日本に戻りアドバイスを聞いて回っていた遠山さんは、紙おむつのCMに釘付けに。おむつに使われている保水材、ポリマーに目をつけた。ポプラの根につければ、保水して水を十分吸収できる。

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すぐにポリマーを取り寄せ、中国に戻り試してみた。水を加え、ゼリー状になったポリマーをポプラの根に絡ませて植える。数日後に根をチェックすると、しっかりと水が行き渡っていた。

100万本達成が目前に迫ったところで、またしても大事件が! 数十年ぶりに黄河が大氾濫し、ポプラの木が流されてしまったのだ。

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嘆く遠山さんの前に現れたのは、反発していた地元住民たち。度重なる試練にも決して諦めない日本人の姿を見てきた、地元住民の心が動いたのだ。

地元の協力を得て、急ピッチで植林が続けられた。そして洪水から1年後、ついに奇跡が! 砂の海だった死の土地が、2万ヘクタールの緑の森に! 100万本の植林を達成し、農地化にも成功。野菜がとれるようになり、去っていった住民たちも戻った。かつて「死の土地」だった場所は見事復活したのだ。

「今の生活を送れるようになったのは、全て先生のおかげです」
かつてスパイだと罵った住民も、今は遠山さんに感謝している。

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1996年、当時中国のトップだった江沢民は、遠山さんの功績を称えて銅像を建立。

「知恵のある人、知恵を出せ。物のある人、物を出す。金のある人、金を出す。命出す人、命出す。4つが組んで頑張れば、世界の砂漠が緑化する」

この信念を胸に、90歳を超えてもなお植林を続けた遠山さんは、2004年にこの世を去った。享年97歳だった。

中国の秘境で、命をかけて砂漠を農地に蘇らせ、多くの人々を救った日本人偉人伝説があった。

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そして5月20日(月)夜9時放送「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」では、「世界一寒いサハ共和国で赤字ラーメン店を営む訳あり日本人」をお届け。

最低気温-71.2度! 世界一寒い国・サハ共和国で一人暮らしをする47歳男性。素人ながら始めたラーメン屋は赤字続き。隣の日本食レストランに客を奪われ、従業員引き抜きの噂も......。一体なぜ男性は日本とは縁もゆかりもないサハに来たのか? その裏に隠された、踏んだり蹴ったりの人生ドラマとは?!

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