きっかけは日活ロマンポルノ!? 今、日本映画界で最も注目される監督・白石和彌の素顔に迫る:前編

公開: 更新: テレ東プラス

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今、日本映画界で最も注目されている監督、白石和彌。『凶悪』『孤狼の血』など激しい作品から、『止められるか、俺たちを』のような青春映画まで、幅広い作品を手がける白石監督とは、一体、どのような人物なのか!?

現在、テレビ東京系で、白石監督が手がけるドラマ最新作「フルーツ宅配便」(毎週金曜 深夜0時12分)が放送中。デリヘルを舞台に、そこで働く女性や、客たちが織りなす人間模様を描いて話題を呼んでいる。

今回は、「フルーツ宅配便」をはじめ、映画監督を志すきっかけから、いかにして監督になったかなど、白石監督の監督魂に迫るべく、たっぷり話を聞いた。

"デリヘル"を通じて様々な人生を描けた実感

――「フルーツ宅配便」の制作発表会見で、「すごい仕事ができた」とおしゃっていましたが、その手応えについてお聞かせください。

「地上波の仕事はそんなにさせていただいてないですが、外から見ていても地上波でのモノ作りが難しくなってきていると感じる中で、"デリヘル"を通じて様々な人生を描けた実感がありました。普段、映画でそれができているかというとそうでもなくて、連続ドラマとしての豊かさの中で、それができたことに感激してしまって。本当に良い仕事をした、僕のキャリアの中でも重要な作品になってくれるだろうという感覚がありました」

――地上波での表現上、難しかったのはどういう部分でしょうか?

「その辺は、テレビ東京のプロデューサーが導いてくれたので、あまり苦労しませんでした。『フェラチオって言って大丈夫ですか?』みたいなやりとりをしたり(笑)。ただ、これがゴールデンタイムになると、"デリヘル"という言葉自体がダメ。深夜でしかできない仕事もあるのだなと。

あと、女優さんは事務所的に『フェラチオって言葉はちょっと...』と言われることもあるかなと思いましたが、それは案外平気で(笑)」

――逆に、そういう放送コードがあるからこそ、表現の幅が広がることも?

「おっしゃる通りで、やっちゃいけない境目があるからこそ、こっちもギリギリを攻めたくなるんです。違う表現方法で、なんとかそれを表現しようとする。それは映画でも同じだし、作品の豊かさにつながる行為でもあるので、楽しかったです。

まず、デリヘルのドラマで"行為なし"というのが、僕には考えられなくて。甲子園の映画を作るのに野球のシーンがない、みたいなものですよね(笑)。今回、そういう意味では発見ができたと思います。そういうシーンがない分、女性が見てくれたり、意外な客層につながっているので、勉強になりました。"いかに見せないで表現するか"という点では、このドラマのもう一人の監督・沖田(修一)さんが上手ですから。彼は省略の天才なんです」

fruits_siraishi_20190307_02.jpg沖田修一監督と:白石和彌監督Twitterより( @shiraishikazuya

――白石監督は、「自分が凶悪な監督だから、沖田監督にも参加してもらった」とおっしゃっていましたが。

「中和剤として(笑)。沖田さんは職人ですし、作品はほんわかしてはいるけど、人間の見方の鋭さは確かなものがある。今回、風俗や性の問題など、沖田さんが普段やっていない題材だからこそ沖田ワールドにはめたら異色の作品ができるんじゃないかなという思いがあってお願いしました。大成功でした」

――1話ごとの完成度も高いですが、全12話を通して「フルーツ宅配便」の世界観ができあがっているということですね。

「そうですね。連続ドラマでは珍しく、クラインクインする1ヵ月前には脚本が全12話分できていました。最初に全体像が見えているので、『ここのネタを前振りしておこう』とか細かい微調整をしながら撮ることができました。先がわからないと、演じる方も、途中で突然『俺、死ぬんだ!?』となったりするわけで(笑)。前もって知っておいた方が、俳優部もいろいろ仕掛けられますし。これが他のドラマとは違うところですね。

アメリカの連ドラでは当然ですし、僕らも映画を撮る時は脚本が出来上がっいないということはまずありませんから。当たり前のことを当たり前にやりたいということを、テレビ東京さんが通してくれて、早い準備ができた分、深夜ドラマの同じ予算でも豊かさが違うんじゃないかと自負しています」

きっかけは思春期に観た日活ロマンポルノ

――ここからは、映画監督を目指すきっかけから、現在のプライベートまで、白石監督ご自身のことをうかがっていきます。まずは、影響を受けた映画監督や作品を挙げるとするなら?

「いっぱいいますね。その時々でも違いますが......小林正樹監督、山本薩夫監督、深作欣二監督、石井隆監督とか。石井監督は、助監督ではないですが制作部で何本かやったことがあります。マーティン・スコセッシ、クリント・イーストウッド、イ・チャンドン......挙げていくとキリがないですけど。アメリカの連ドラ、『ウォーキング・デッド』とか、マーベル映画も観ます」

――子どもの頃から映画はよく観られていたのですか?

「母親と祖母が映画好きだったんです。北海道・旭川の田舎で、祖父母がやっていた定食屋の前にバス停があって、目に付く場所だから映画会社が月2回くらいポスターを貼りに来て。そのお礼に映画の招待券がもらえたので、よく映画を観に連れて行ってもらったんです。小学生くらいから、割と背伸びした映画も見ていました。だから、普通の人よりも映画館で映画を観る機会が少し多かったのかもしれません」

――その頃観たもので印象に残っている映画、影響を受けた映画などはありますか?

「洋画のブロックバスタームービー(超大作)を観ることが多かったですね。最初は、母に『わんわん物語』に連れて行ってもらったのを覚えています。犬同士がスパゲッティを端から食べ合ってキスするんですよ。それを見て衝撃を受けました。犬のクセにキスしてる!って(笑)」

――その後はどんな映画を? 14歳ぐらいの思春期の頃にハマったものはありますか?

「日活ロマンポルノを観ちゃったんです、14歳で『桃尻娘』を(笑)。当時、ビデオが家庭に普及し始めて、親が借りてきたのか何だったのかわかりませんが、すごく面白くて感動したんですよ。そこから日本映画もいろいろ観るようになって。中学生の頃は『仁義なき戦い』とかを観てましたね。高校生ぐらいになると日本映画が一気に面白くなくなったので、昔の映画のビデオを借りていたかな」

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――やはり映画少年だったんですか?

「毎日観て年間300本!......みたいなことはなくて、せいぜい週に1本か2本ですね。サッカー少年で部活やってました」

――映画好きのサッカー少年だったんですね! 監督の作品からして、実はやんちゃな時代があったのかと思ったのですが(笑)

「いやいや、怖い人と目を合わせないようにしている、普通の子でしたよ(笑)。
高校の学園祭とかでは段取りをするのが得意で、『お前は買い出しに行って、その間に俺たちはこれをやって合流しよう』みたいなことをやっていました。それが後の助監督につながっていくんでしょうね。みんなで何かを作る高揚感や、それを仕切っていくのが楽しくて。多分、監督になろうというより、スタッフになろうというのがスタートでしたね。映画に関わりたいという思いです」

――その思いは、高校生ぐらいから抱くようになったのですか?

「そうですね。高校を卒業して札幌にある映像技術系の専門学校に行ったけど、就職できなくて。それで東京に出てみようと」

"超常識人"なので監督になれるとは思っていなかった

――中村幻児監督主催の映像塾に参加後、若松孝二監督、行定勲監督、犬童一心監督などの下で助監督をされていましたが、実際に映画の世界に入ってみて、いかがでしたか?

「楽しかったですよ。『止められるか、俺たちを』(1969年の若松プロダクションを舞台とした青春映画)の時代には、若松さんは年間7、8本撮っていましたが、僕が入った頃は3年で2本くらいしか撮っていなかったんです。だから何もしてない日も多くて、事務所で若松さんと一緒にワイドショーを見てました(笑)。そういう生活が3年くらい続いて」

――以前、白石監督は「その頃は丁稚だった」という表現をされていましたね。

「本当にそんな感じです。そこで若松さんのものの考え方や、お客さんが来たときの対応の仕方、映画人との会話......いろいろついて回って見たことが、役に立っているんです。そういうときの若松さんと、今の自分が同じ動きをしてるなと感じることがありますね」

――若松監督をはじめ、助監督としていろんなタイプの監督と仕事をされた経験が、今に活きているんですね。

「そうですね。暴力ものも、暴力じゃないものも撮れるのは、それがあるからだと思います。映画やドラマを撮るのにはコツがいる。それをつかむには、いろいろ経験しないといけない。監督1本目でつかむのは難しいけれど、助監督をやっていると引き出しが増えるので、コツに行き着きやすいというのはあるかもしれないです」

――それだけの監督から信頼を得ていたということは、かなり優秀な助監督だったんですね?

「そうなんです。自分で言うのもなんだけど優秀な助監督だったので、これは一生続くなと。20代後半の時、『ここから抜け出さなきゃ』と思いました。

若松さん、行定さん、犬童さんのように『すごいな』と思う人もいる一方、『なんで監督やってるんだろう?』と思うような人もいて。30歳前くらいには、『この人よりは俺の方が面白いもん撮れるわ』と思う回数が増えてきたんですよ。だったら監督の準備をしようかな、というのがスタートでした」

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