極貧~億万長者に!パラグアイで仙人暮らしする日本人

公開: 更新: テレ東プラス

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世界で活躍する知られざる日本人を取材し、ナゼそこで働くのか、ナゼそこに住み続けるのかという理由を波瀾万丈な人生ドラマと共に紐解いていく「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」(毎週月曜夜9時)。海外での日本人の活躍に共感し、日本人であることに誇りが持てるドキュメントバラエティだ。

「テレ東プラス」では、毎回放送した感動ストーリーを紹介していく。今回注目するのは、パラグアイの秘境の森で25年間自給自足生活を送るワケあり日本人。

日本の反対側に位置する国・パラグアイ。国土は日本の面積とほぼ同じだが、人口は約670万人と埼玉県とほぼ同じ。

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今回訪ねる日本人はカラガタウという秘境の村に住んでいるという。早速カラガタウに向かうバスターミナルに行ってみると、4時間かかるとのこと。日本からカラガタウまで要する時間は、飛行機の乗り継ぎなども加えると実に36時間にもなる。

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村の消防士に日本人のことを尋ねると、「もちろん知ってるわ。彼はこの村にとって大切な日本人なんです」とのこと。「でも、歩いていくのはとても大変なほどへんぴな所に住んでいる」とのことで、なんと消防車で近くまで送ってもらえることに。近くの村に着き、舗装されていない道を歩くこと10分、木々の間に人影が見えたと思ったら、何とも人懐っこい笑顔で迎えてくれる一人の日本人がいた。この人こそ、25年間も秘境で仙人暮らしをしている久岡寛さん(77歳)。

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挨拶が終わるとおもむろに木から何か果物を収穫する久岡さん。聞けばレモンで、いつも半分に豪快に手で割り、その汁を飲んでいるという。

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このレモンは野生のものではなく、久岡さんの土地で育てているものだが、時には盗まれることもある。昔は腹も立ったが、年齢を重ねるにつれて怒りの気持ちは薄れてきたそうだ。レモンの収穫を終え、久岡さんのご自宅に連れて行ってもらうと、そこには小さな一軒家が建っていた。質素な家でところどころ壁が壊れていたりもするが「男の一人暮らしだからそんなにピチッとはできないよ。それに最近気がついたんだけどね、ピチッとちゃんとする人はね、結構気難しい(笑)。いい加減な人の方が奥さんや恋人は喜ぶ」と冗談を言って笑わせた。

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自給自足暮らしには欠かせない鶏を飼い、畑にはネギ、ニラ、シソなど20種類以上を栽培している久岡さん。桑の実やマカダミアナッツ、そして見たこともない不思議な木の実も育てている。

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一見不気味に見えるこの植物は、南米で栽培されている「ジャボチカバ」という果実。完熟するのを待てば甘酸っぱいヨーグルトのような味になるという。そして久岡さんが毎日楽しみにしているのが五右衛門風呂。水が沸くのを30分待ち、どっぷり浸かれば、一日の疲れがなくなると話す。

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いつも明るい久岡さん。かつては奥さんと5人の子どもたちとの幸せな生活があったが、人生を狂わすある出来事によって25年間も自給自足生活をすることになったという。一体その出来事とは何だったのか?

それを知るためにも、久岡さんの一日に密着してみることに...。久岡さんの朝は早く、毎日4時に起床。シソの天ぷらを作り、その後欠かさず、朝日に向かって四股を踏み、見えない相手に向かって何歩か押し出すように攻めていく。「久岡式体操」と呼ぶこの体操こそが、元気の源なのかもしれない。

朝6時になると、お弁当用に作ったたくさんのシソの天ぷらを持ってレモン畑へ出発。レモン畑に着くと、早速雑草を刈り始める。少しでもこの作業を怠ってしまうと、すぐにレモン畑に雑草がはびこってしまうそう。朝8時、仕事がひと段落して、ようやく先程のシソの天ぷらが登場。これが朝食なのだ。

すると近所の子どもたちがやってきた。このあたりの人々はとても貧しく、子どもたちは朝ご飯が食べられないので、久岡さんに分けてもらいたくてついて来るとのこと。

食事が終わり、再び草刈りをするのかと思えば、朝ご飯を分けてあげた近所の子どもが久岡さんに代わり草刈りをしてくれている。「助かるよー」と話す久岡さん。近所の子どもたちは、久岡さんから分けてもらう朝ごはんのお礼に、毎朝手伝ってくれるという。

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昼間両親が仕事でいない上に、学校に通えない子どもたちにとって久岡さんは2番目のお父さんのような存在。子どもたちの面倒を見てもらえるので、両親はみな安心して仕事ができるとのこと。続いて久岡さんの買い物について行ってみると、買い物をした後、店の人が何かメモを取っている。何かと思えば、実はこれ、久岡さんのツケをメモした帳簿らしい。

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かなりの金額のようだが、「お金がある時に払ってくれればいい」と話す店主。近所の子どもたちの面倒を見てくれることにとても感謝しているようだ。

では、なぜ久岡さんは、ツケで買い物をしなければならないほど困窮しているのだろうか? 聞けば「年金なんてない」そうで、死ぬまで働いて稼がなくてはならないらしい。電気代も水道代も払えず、現金を持っていないからこそ一生懸命働き、レモンを出荷すればそれらのツケが払えるそう。

別の日、久岡さんが大切な場所に行くと言うのでついて行かせてもらうと、そこは誰かのお墓。手を合わせて祈り続ける久岡さんは、なんと突然泣き出してしまった! この涙が久岡さんの自給生活と関係しているのだろうか。

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1941年(昭和16年)6人兄弟の長男として生まれた久岡さん。最初の試練は1歳の時。久岡さんはいろりのそばで寝かされており、誤っていろりに転落。熱湯をかぶって大火傷をしてしまったのだ。一命は取り留めたものの、頭には大きな傷が残ってしまった。髪の毛が生えないその部分を見て、周囲の子どもたちに「ハゲ頭」といじめられたそう。さらにつらかったのは極貧生活。小作農で自分の土地を持たない父の収入は少なく、中学生の頃、幼い5歳の妹を栄養失調で失ってしまったという。

すべての原因は貧しさにあると思った久岡さんは、16歳の時、「広大な土地がもらえる」との政府の言葉を信じ、一家6人でパラグアイに渡ったのだった。

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荒れ地を耕し、26歳の時、同じ村に住む日本人女性と結婚、5人の子宝にも恵まれた。しかし、家計を支えるはずの畑は失敗の連続。自宅まで何もかも売り払い、耐え忍ぶ生活が3年ほど続く。

そんな中、久岡さんは起死回生を図るべくある作物を育てようと考えた。そのある作物とは大豆。大豆は植物油の原料となる重要な作物だった。当時世界各国で人口が増え始めたため、植物油の需要が急増し、大豆の価格は年々上がっていた。この機会を逃すまいと、久岡さんは借金をして農地を買い増し、大豆作りに賭けた。

かつての久岡さんの土地に連れて行ってもらうと、なんとそこは、東京ドーム100個分もあった。そんな広大な畑で貧乏生活から抜け出すため大豆を作り始めたのだ。しかし、そこは自然相手の農業。長雨によって植えていた大豆は全滅。次こそはと夢を託し続けて20年、希望の芽は出ないまま、借金ばかりが膨れ上がり、気づけば1億円もの額となっていた。

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さらに、一緒にパラグアイに移住した両親も次々と他界。「神にも見放され、俺はもう限界なのか...」そう諦めかけていた久岡さんに、この時予想もしなかったある転機が訪れる。それは北アメリカの大干ばつだった。大豆の一大生産国であるアメリカやカナダが大干ばつとなり、北半球の大豆がほぼ全滅してしまったのだ。

大豆の国際相場は跳ね上がった。それに加え、その年はパラグアイの気候も良く、おかげで大豆は大豊作。大豆の値段は2倍に跳ね上がり、大豆がすべて売り切れたのだ。

だが、「これから幸せになれる」と家族の誰もが思った時、久岡さんは信じられない行動に出た。なんと、土地も農作機もすべて売ってしまったのだ。その代わりに手に入れたのは4億円もの大金! この時久岡さんは48歳。夢にまで見た億万長者となった。

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しかし、なぜ久岡さんはすべてを売り払ったのだろうか。それは20年間続いた借金生活から一日も早く抜け出したかったからであった。借金を返しても手元には3億円が残った久岡さんは「苦労をかけた家族の幸せのためにこのお金を使おう」と思った。しかし、苦労の末にやっと手にした大金は、彼に「少しくらい遊んでもいいだろう」と甘くささやいた。

その結果、毎晩豪遊三昧となり、大金を手にした久岡さんには多くの人がうまい儲け話を持ち掛けてきた。飲み代はもちろん久岡さん持ち。一晩で100万円使うこともあったという。高級外車を買い、運転手までつけて南米を旅し、やることと言えば「飲む、打つ、買う」。家族には生活費だけを渡し、自分は南米中を遊び回った。大金を手にして変わってしまった久岡さんと家族との間には、次第に大きな溝が生まれていった。

家族のために使うはずだったお金...しかし気づけば一人ぼっちになっていた久岡さんは、「お金は人を不幸にする。不幸にするだけならともかく、(周囲の人が)愛せなくなるような心の人間にまでしてしまう。お金は怖いものだなぁと思う」としみじみ語る。

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51歳にして、ようやくお金だけでは幸せになれないことに気づいた久岡さん。久岡さんの成功を誰よりも願っていた両親の墓の前では自分の愚かさに涙が止まらない。

お金で人生を狂わせた久岡さんは、お金から逃げるように人里離れたカラガタウに土地を買い、お金を見たくないからと自給自足の生活を始めた。都市に住みたいという家族の意見を尊重し、別れて暮らすことになった久岡さんは、残っていたお金も2005年に村に学校を作ることで使い切り、今の生活になったのだ。

そして今は、第2の夢を見つけたという。「今の自分の土地に、誰もが無料で通える学校を作りたい」という夢だ。村の人々は久岡さんに心から感謝し、また尊敬している。都会に暮らす妻とは時々会うが、彼女も久岡さんの夢や考えを理解しているという。

一度はお金で失敗したが、今度はそのお金で子どもたちを救いたいと願う日本人がここにいた。

●そして、明日夜9時放送の「世界ナゼそこに?日本人 ~知られざる波瀾万丈伝~」では、【好評企画「日本人偉人伝説」6000人のユダヤ人の命を救った杉原千畝の知られざる新事実!】をお届け。

第二次世界大戦下のリトアニアで歴史的大偉業を成し遂げ、今も現地で感謝され語り継がれている奇跡の日本人「杉原千畝」を番組が徹底調査!今までテレビではほとんど語られてこなかった、杉原千畝の日本帰国後の知られざる新事実を大公開!

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1939年、ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻。ナチス・ドイツによるユダヤ人の大虐殺が始まると、隣国リトアニアに逃れてきたユダヤ人たちがビザ発給を求めて日本領事館へ。当時、領事代理だった杉原は、ユダヤ人たちを救うため日本政府へビザ発給を要請するが、ドイツとの同盟を考えていた政府はこれを拒否。外交官・杉原か、人間・杉原か...悩んだ結果、彼は日本政府に背いてビザ発給を決意する。その決断の裏には、ある人物との出会いがあった!多い日は1日300通のビザを発給。リトアニア退去の日も駅のホームでビザを書き続けたという。しかし、国に背いたこの行動により、帰国後の彼にはあまりにも大きな代償が待ち構えていた...。ビザ発給後、日本に帰国した杉原を待ち受けていた、もうひとつの人生ドラマとは?これまでテレビではあまり語られることがなかった、知られざる"驚きの真相"が明らかに!さらに、当時を知る妻の貴重な肉声も公開!

どうぞお楽しみに!

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