吉田羊

親は、いちばん身近な他人だと思う。小さい頃は、親が生活のほとんどすべてだった。だけど、大きくなって、自分の世界をどんどん持つうちに、やがてそのほとんどを親と分かつことはなくなる。親に話せないことが増えていくことが、大人になるということだろう。血は分けているけど、人生を分かつことはない。それが、親だ。

そしてあるとき、自分もまた親についてほとんど何も知らないということにはたと気づく。この人がどこで生まれ、どんな子供時代を送り、どんな師と出会い、どんな友を持ち、どんな恋をし、どんな涙を流し、家庭を持ち子をなしたのか。そして、親となった自分とどう折り合いをつけながら人生の後半戦を生きてきたのか。そのほとんどを、自分は知らない。

親は生まれたときからずっと親で、そこに人生があることを想像だにしなかった。ということに気づいたとき、自分がどれだけ親に守られ、庇護の下で暮らしてきたのか、その能天気さを思い知るのだ。

國村隼
國村隼

【父親というのは、いくつになっても厄介だ】
現在放送中のドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』を見ていると、いつも親のことを思う。原作は、人気コラムニスト、ジェーン・スーの同名エッセイ。ジェーン・スーをモデルとした蒲原トキコを吉田羊、その父・哲也を國村隼が演じている。

母は20年前に他界し、未婚のトキコにとって家族と呼べるのは実の父だけ。会えばそれなりに会話も弾み、気の合うように見えるが、かつて二度ほど同居を試みたものの解消したという過去があり、単純に仲良し父娘とは言えない関係だ。

それもそのはずで、この父は身内にいるとちょっと面倒なタイプに見える。かつて商売を営み、左団扇の時代もあったようだが、事業に失敗し、今は貯金もすっからかんという有り様。にもかかわらず、娘に賃料を出してもらう魂胆で、勝手に年金よりも高い家賃の部屋を仮申し込みしてくるような、ちゃっかりした性格だ。しかも直接それを頼むのではなく、娘が自主的に援助を申し出るまでとぼけ顔を決め込むあたりタチが悪い。

年相応の偏見もあるようで(こういう言い方も偏見だけれど)、若い女性店員に「君じゃ話にならないから、店長さん呼んできて」と言ったりする。たぶん政治家になったらたちまち炎上するタイプ。娘は家賃を援助する代わりに、そんな父親のことをエッセイに書くことにする。これは、もうじゅうぶんに大人になった娘と、老いゆく父の、どこにでもあるようで、たったひとつだけの、父娘の物語だ。

【「好き」とか「嫌い」とかでは割り切れないのが、「親」である】
父親というのは、子供がいくつになっても独特な存在だ。わずらわしいことも多い。たとえば、トキコはコーヒーが飲めない父親のために、ファミレスのドリンクバーではラテ・マキアートのミルクの部分だけを使ってロイヤルミルクティーをつくるという曲芸じみた真似をしている。

叔母の葬儀で、トキコは叔母が好きだったペディキュアと口紅を棺に入れてあげたくて担当者にお願いをするのだが、有毒ガスが出るからと断られてしまう。そんな杓子定規の対応に腹を立て食ってかかる父を、今度はトキコの方がなだめて担当者に頭を下げる。全身がかゆいと言う父に付き添い、かかりつけ医にアレルギー検査を頼んだら、1か月前に検査したばかりだと返されたこともあった。どれも些細なエピソードだけど、うちも似たようなことがあると、トキコに思わず相槌を打ちたくなる。

でもだからと言って、父というのは無下にしづらい生き物だ。特に哲也のような世代は、「男の沽券(こけん)にかかわる」なんて言葉が当たり前のように出てくるし、家父長制の意識も強い。なるべく立てて、機嫌をとらないと、すぐにヘソを曲げかねない。

子供も子供で、大人になるといち個人として人格が出来上がるし、親と考え方が相容れないことも増える。昔は親のことを万能だと思い、親の言っていることはすべて正しいと信じ込んでいたけど、どうやらそうでもないらしいことに、社会に出れば気づいていく。その中で、親とうまく付き合っていくというのは、存外に難しい。

「毒親」なんて言葉もあるけれど、そこまでひどいものではないにせよ、「好き」と「嫌い」の間には「合う」「合わない」とかいろんなグラデーションがあって。「赤」とも「青」とも「黄」とも「緑」とも言いがたい曖昧な色相の上で立ち位置を測りかねているのが、大人になってからの親と子の付き合いのような気がする。

『生きるとか死ぬとか父親とか』はそんなふうに「愛しい」や「憎らしい」だけでは片づけきれない父に寄せる感情を、いくつもの「とか」を並べながら描いている。その言い切れなさが、胸に沁みるのだ。

【40を過ぎると、なぜか他人の人生が知りたくなる】
「君のことをエッセイに書くよ」

そう父に宣言したトキコは、少しずつ父の口からその人生を聞いていく。親代わりの兄姉から交際を反対され、一度は母と別れたこと。半年後、銀座で偶然再会したこと。その勢いで母のアパートに転がりこむようになったこと。父娘でありながら、ずっと知らなかった物語。それを知っていくことは、なんだかこそばゆくも愉しい。

そういえば、同じ40代の未婚女性が主人公という括りでは、前クールで『その女、ジルバ』(東海テレビ・フジテレビ系)があったが、あれも主人公の新(池脇千鶴)が人生の大先輩であるジルバ(池脇千鶴/二役)やくじらママ(草笛光子)の人生を知っていく物語だった。この年になると、他人の――しかもできれば、自分より年上の人生がやけに興味深く思えてくる。

それはひとえに他人の人生を知ることは、自分の人生を見つめ直すことになるからだろう。これだけ生き方が多様になった現代で、自分の生き方の確かさを実感するのはひどく難しい。長く生きるほどに、選び損ねたいくつもの選択肢を振り返っては、あんな道もあったかもしれない、こんな道があったかもしれない、と別の人生の可能性を数えてしまう。不確かさばかりに脅かされる毎日で、こういうふうに生きている人がいると知ることは、人生に正解などないという決まり文句を裏づける補完材料となる。

トキコがやっているラジオもそのひとつだ。毎週、トキコのもとにはいろんな悩みが届く。それを、それぞれ別の場所でいろんな人が聴いている。そのゆるやかなつながりが、不安という心の空洞をわずかに埋めてくれる。どう生きてもいい、と言われる時代だからこそ、他人の人生に、自分の人生を見るのだ。

それが、血を分けた父ならなおのことだろう。自分が年をとった分だけ親も年をとる。普段から口にすることはないにせよ、この人とこうして笑ったり話ができる時間はあとどれくらいあるのだろうと意識しない日はない。トキコも、突然逝った母に対し、何も話を聞けなかったことを悔やんでいた。子が親のことを知りたいと願う気持ちは、いずれ来る親の死のための心の準備なのかもしれない。

【「親」と向き合うことは、自分と向き合うこと】
だけど、知っていくほどに見たくないものも浮かんでくる。トキコの場合は、父の裏切りだ。女性によくモテたという父は、過去に愛人がいたらしい。そのことを、トキコは今も許せずにいた。いくつになっても、父親の中から男性性を嗅ぎ取るのは憂鬱だ。トキコが抱く嫌悪感はよくわかる。ドラマは中盤戦を迎え、ここからより父娘の溝に焦点が当てられるだろう。はたしてトキコは父を許せるのだろうか。

そして、最も身近な他人である父への拒絶と受容を通して、この父娘は僕たちにどんなものを見せてくれるだろうか。人生には考えることがいっぱいで、悩みは尽きない。仕事とか、パートナーとか、出産の期限とか、腰痛とか、寝不足とか、人間ドックとか、年金とか、老後資金とか、「とか」を並べたら無限に溢れ出てくる。そして、その最後にふと「親の今後、とか?」と付け足したりする。

トキコは、母はカラーが好きだったと知っていた。けれど、僕は親の好きな花さえ知らない。もしものことがあっても、祭壇に何の花を飾ればいいのかわからないし、毎年の墓参りに何を供えてあげれば、父や母が喜ぶのか見当もつかない。そんな不孝行息子にも、ゆっくりと近づいているのだ、そのときが。

ならばせめて、この人がどう生きたのか、それをもう少し知ることを試みてもいいのかもしれない。いちばん身近な他人と向き合うことは、自分と、そしてあらゆる他者と向き合うことにつながっていくのだから。
(文:横川良明)

吉田羊
吉田羊

<第5話あらすじ>
父親について執筆しているエッセイがネタ切れになってきたトキコ(吉田)。幼いころ父と楽しく遊んだ思い出がないという話から、東(田中みな実)に提案され、父(國村)と二人で動物園に行くことに。

國村隼、吉田羊
國村隼、吉田羊

しかし自由気ままに歩き回る父に振り回されるばかりで良いエピソードなどとても作れそうにない。ところが帰りに寄った昔なじみの店で、トキコの知らない昔の父の仕事話や幼い頃の二人のエピソードを知らされることに。

この記事のライター

横川良明(よこがわ・よしあき)

1983年生まれ。大阪府出身。ライター。ドラマ、演劇、映画を中心にエンタメ分野を幅広く取材。コラム本『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』(サンマーク出版)、男性俳優インタビュー集『役者たちの現在地』(KADOKAWA)が発売中。 Twitter:@fudge_2002

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