中澤佑二「オレのせいじゃなかった」楢崎正剛との長年のわだかまりが解消

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中澤佑二「オレのせいじゃなかった」楢崎正剛との長年のわだかまりが解消

テレビ東京系サッカー番組『FOOT×BRAIN』(毎週土曜24:20~)が、2月16日に放送開始400回を達成。元日本代表の楢崎正剛中澤佑二をゲストに招き、番組MCの勝村政信鷲見玲奈アナウンサー、番組アナリストの福田正博北澤豪秋田豊と共に「平成サッカー史」を振り返った。

Jリーグが開幕した平成5年(1993年)。現在、J1からJ3までの55クラブで構成されるJリーグが10クラブでスタートし、空前のJリーグフィーバーが日本を席巻した。中澤は「ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)が好きで、Coca-Colaと描かれたユニフォームを買っていた」と明かし、楢崎も「Jリーグ開幕前に奈良で開催してくれたことがあって観に行った」と振り返った。一方で多くの人々の脳裏に焼き付く「ドーハの悲劇」もこの年の出来事だ。

ワールドカップ初出場まであと一歩と迫ったアジア最終予選。日本はイラクに終了間際に追いつかれワールドカップの切符を逃した。楢崎は「積み上げてきたものが、あのワンプレーでダメになったからガックリした思いがある」とコメント。すると、この大会を日本代表として戦った北澤は、「ワールドカップに行けなかったことは、せっかく立ち上がったJリーグに対して申し訳なかった。とにかく勝って何かを変えなくてはいけない時代だったから、あの負けは責任を感じました」と当時の心境を告白した。

そして平成7年(1995年)。楢崎が高校サッカー選手権ベスト4の実績を持って横浜フリューゲルスに入団。「3~4のオファーを頂いた中から選んだ」と明かすと、プロになるために厳しい道を歩んできた中澤は「そんなにあったの?」と衝撃を受けた様子。楢崎は入団の決め手について、ドレッドヘアなど独特の風貌で人気を博したゴールキーパー・森敦彦の存在が大きかったと言って「自分に持っていないものを吸収したかった」と明かした。

平成8年(1996年)は、アトランタオリンピックでブラジル代表を撃破した「マイアミの奇跡」に日本中が歓喜で包まれた。その頃、中澤はプロになることを夢見て単身でブラジルへ留学。しかし、プロから声がかかることはなく2年後に帰国。年齢を偽り母校とヴェルディユースの練習試合に参加し、執念のヘディングで1点をもぎ取ることに成功。相手監督に「高3でそれはスゴイな!」と目をつけられると、実は二十歳だということを打ち明け必死のアピールでヴェルディに練習生として参加することに。北澤が「紅白戦でカズさんにバシバシやって“ふざけるな!”って怒られたもんね」と有名なネタを振ると、中澤は「その当時のサテライトのコーチの方が“お前、カズ削ってこいよ。やったら目にとまるぞ”って言われたんです」と弁明し、北澤は「それが良かったんだと思うよ」と懐かしんだ。

念願のワールドカップ初出場を果たしたのは平成10年(1998年)。楢崎は「バティストゥータ(アルゼンチン代表)やシュケル(クロアチア代表)とかが本気で戦っている舞台にやっと立つことが出来たと思った。でも、僕はベンチで見ていたから、出場している人たちがすごく羨ましかった」と正直な思いを吐露。その時、日本のゴールマウスを守っていたのは川口能活。以来、この2人が代表の正ゴールキーパーの座を争ってきた。そんな2人が今年、奇しくも同じタイミングで引退を発表。楢崎は川口の存在がについて「一つ年上で、常に一歩先を行く。ゴールキーパーのイメージを変えた先駆者」と語り、自分の成長にも欠かせない存在だったと振り返った。

同年の10月29日には、日本サッカー史を揺るがす大事件が起こる。横浜フリューゲルスの親会社が撤退し、横浜マリノスに吸収合併されることが発表されたのだ。思いもよらない知らせを受けたサポーターと選手たちは、チーム存続のため一丸となって署名活動に奔走。楢崎も街頭に立ち続けた。そして、「強い姿を見せ続ければ新たなスポンサーが現れるかもしれない」とチームは団結。そこからのリーグ戦は終盤で4連勝。さらに天皇杯では優勝候補のジュビロ磐田や鹿島アントラーズを下すなど順調に勝ち進み、決勝で清水エスパルスを破り見事優勝。しかし、合併の決定は覆らず、横浜フリューゲルスはJリーグから姿を消した。

クラブの消滅について寝耳に水だったという楢崎は「試合をしていて良いのか? 覆る可能性はあるのか? と考えながら試合をしていた」と自身とチームの困惑ぶりを明かした。その後、楢崎は名古屋グランパスで引退まで過ごすことになるが、試合で配布されるメンバー表にある前所属クラブの欄に「横浜フリューゲルス」と書かれることに触れ、「移籍にはいろんなタイミングがあると思いますが、忘れられないためにも(移籍をしなくて)良かったと後になって思った」とかつての所属クラブへの思いを明かした。

一方で平成11年(1999年)は中澤にとって努力が一気に花開いた年でもあった。ヴェルディ川崎の練習生からプロ契約を勝ち取り、その年の新人王を獲得。トルシエ監督のもとA代表にも選出された。中澤は「よくわからないまま選ばれ、よくわからないままスタメンだった」と環境の変化に驚いたという。

そして平成12年(2000年)、シドニーオリンピックの準々決勝・アメリカ戦。楢崎と中澤の頭部が衝突。楢崎は眼窩底骨折の大怪我を負い流血。楢崎は「敵とぶつかったなら良かったんですが、ボンバーとだったので」と笑い、中澤も「ここから一気に二人の仲が深まりましたよね?」と話した。そして、福田が「ぶつかったのはどっちが悪かったの?」と質問すると、楢崎が「(僕が)出なくて良かった」とポジショニングのミスを認めるコメント。中澤は「僕はヘディングが自分のウリだと思っていたから浮いたボールは全部自分が行くという感覚だった。本当に申し訳ないなとずっと思っていたのですが、今日、そう言ってくれて良かった。オレのせいじゃなかったんだ。コノォ!」と楢崎にツッコミながら、長年のわだかまりがこの場で解消したと胸をなでおろしていた。

2月23日の放送は、引き継続き楢崎&中澤をゲストに「平成サッカー史」の後半の模様を放送。2人の同日引退発表秘話や番組SNSに寄せられた視聴者からの質問に答えていく。

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