中居正広からの質問に志村けんが涙をポロリ…「いかりや長介さんはどんな人?」

公開:

志村けんが、4月5日に放送される『中居正広のキンスマスペシャル』(TBS系、毎週金曜20:57~)に出演することがわかった。50年にわたりお笑い界のトップを走り続けてきた志村は、MCの中居正広に何を語るのか?

表舞台で自分のことをほとんど語ることがないどころか、素で出るのが苦手でじっくり話す番組には出ないという志村。今回『金スマ』では、そんな志村の生い立ちから現在に至るまでの軌跡を辿る。

1950年、東村山市に3人兄弟の末っ子として誕生した志村。祖父母や父親の兄弟も共に暮らす大家族で特に甘やかされることもなく育った彼が、最も恐れる存在……。それは、柔道五段で、小学校で教頭をしていた父。冗談が通じない性格で、恐ろしいだけでなく、礼儀やしつけにも厳しかった。

そんな中、小学校3年生の運動会で、徒競走を前に緊張した志村を襲った便意。スタート直前で漏らしてしまった。この時は情けなさに泣くことしかできなかった。その結果、クラス中から「うんこ垂らし」と呼ばれるように。おもらしのイメージを払拭したい……そんな時にたまたま耳にしたレコードが酔っ払いが登場する落語だった。志村はクラスのひょうきんものを演じることにした。友達を誘い初披露したコントは酔っ払いネタ。続けているうちに「人を笑わせるって気持ちいい!」という感情が生まれた。これが志村の「お笑い魂」の目覚めだった。そして、コメディアンを目指すことになるもう1つのきっかけが、テレビとの出会い。志村がテレビで流れる「雲の上団五郎一座」を夢中になって見ていたら、一緒に見ていた父が笑ったのだ。厳格で声を出して笑うことなどない父の笑い声を聞いたことで、コメディアンになりたいという思いが志村の中で大きくなっていったという。

志村がお笑いの世界に飛び込みザ・ドリフターズに加入することになったのは、高校の時夢中になったビートルズが関係していた。志村は当時、ビートルズに憧れていて、彼らを真似し、高校生としては珍しいマッシュルームヘアをしていた。高校2年生の時、ビートルズがコンサートで初来日。抽選に外れた志村は、チケットを持っていたクラスの女の子を説得して、なんとかチケットを手に入れた。その来日公演で前座を務めたのがドリフターズだった……が、志村が観に行ったのは、ドリフが前座を務めた次の日の公演。当時、ドリフへの思いはなかったと言う。2人の兄は大学に進学。志村は兄たちと別の道に進みたいと「コメディアン」になることを決意するが、お笑いの養成所はなく、デビューするには師匠に「弟子入り」か「付き人」からしかなかった。志村にとって問題は、誰に弟子入りするかだったが、なぜドリフを選んだのか?

リーダーであるいかりや長介に弟子入り志願をするため、いかりやの自宅を突き止め、雪の中12時間も待ち続けたという。ようやく会えたいかりやから「やめそうな奴がいるから、そいつがやめたら連絡する」と言われ、ただ待つ日々が続く。やがて高校卒業まで2か月。このまま連絡が来なかったら無職になってしまうという状況の中、その1週間後にいかりやから突然連絡が。翌日から付き人になった志村だったが、脱退した荒井注の代わりに、急遽付き人から“見習い志村”として『8時だョ!全員集合』に出演。しかしすぐに花開くわけではなかった。荒井の穴は大きく、コントは低迷。番組の会議が煮詰まる中、志村が何気なく歌った「東村山音頭」を聞いたいかりやに「舞台でやってみろ」と言われ披露したところ、それが大ウケ。プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、その後「カラスの勝手でしょ」「ピカピカの1年生」「ヒゲダンス」などヒットギャグを連発。全国のお茶の間の子どもたちに大ブームとなっていった。

日本を代表するコメディアンのひとりである志村けんが、いかりやの門を叩いてからおよそ50年。69歳になった志村は現在も舞台に上がり続けている。その原動力は「舞台が好き」ということだという。壁にぶつかりながらも、自分で切り開いてきたコメディアン人生。第一線で活躍している志村の姿を誰よりも喜んでいたのはいかりやだったのかもしれない。

『金スマ』ではいかりやの息子にも話を聞き、ドリフターズとして、そして師匠と弟子としてのいかりやと志村の関係について掘り下げる。VTRを見ながら志村が涙する場面も……。中居からの「初めて聞く話もあったかと思いますが、志村さんにとっていかりや長介さんはどんな人?」という質問に、志村が涙を見せて答えた言葉とは?

PICK UP