京都の織物の町・西陣の発展の秘密とは?タモリ、職人のスゴ技に驚愕『ブラタモリ』

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街歩きの達人・タモリが“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る『ブラタモリ』(NHK総合、毎週土曜19:30~)。7月13日の放送は、「京都・西陣~織物の町・西陣はどうできた?~」と題して、タモリと林田理沙アナウンサーが京都の西陣を訪れる。

今回、日本を代表する高級織物「西陣織」の産地として有名な同町が、織物の町としてどのように発展したか、その秘密をタモリがブラブラ歩いて解き明かすことに。

タモリがまず訪れたのは、西陣織のミュージアム。そこで目にしたのは、織り方も模様も異なる12個の織物で、実はこの12個すべてが「西陣織」だという。そもそも西陣織とは、ひとつの特定の織り方があるわけではなく「京都(西陣)で生産される先染の紋織物の総称」なのだとか。

続いては、織物職人の機織りの現場を見学。とても細かい模様を織るのに使うのは爪で、そのスゴ技にタモリも驚愕する。

「西陣」という名前の由来は、「応仁の乱」で西軍の本陣がここに置かれたことによる。西陣付近に残る「応仁の乱」の痕跡をタモリも歩いてたどると、東軍の本陣と西軍の本陣、そして両軍の戦いを分けた激戦地が、歩いてすぐの近い範囲にあることが分かる。

室町時代の後期に11年も続き、京都中を焼け野原にした大戦のイメージが強い応仁の乱だが、実は応仁の乱の発端はご近所同士の争いだったという。

応仁の乱後に西陣織は大きな発展を遂げるが、その秘密を握るのが京都市の北西部にある船岡山。市街地の近くにポコンと突き出た船岡山を登ると、見つけたのは大きな岩。この岩をよく見ると、仏様の姿が浮かび上がって見えてくる。つまりこの辺は、お墓に使われていた土地だったことがわかる。

船岡山は、京都の「北のヘリ」にあり、お墓に選ばれるなど使われていない土地も多く、そのためこの地域は織物生産の“工業都市”として発展するポテンシャルを持っていたのだそう。

西陣織は江戸時代には高級織物として発展。280年続く帯問屋さんに残る資料を見ると、公家や武家、有力な神社仏閣などの紋が勢ぞろいし、当時のセレブたちに高級織物として愛されていたことが判明する。

しかし明治時代になり、遷都によって天皇とともに多くのお客さんが離れてしまったことで、西陣織に大ピンチが訪れ、それを乗り越えるために取り入れたのがジャカードと呼ばれる西洋の技術。西陣織は、伝統とともに、海外の最新技術も取り入れることでピンチを乗り越え、明治時代に更なる大きな発展を遂げることになる。

そんな発展ぶりの痕跡は、西陣の町並みにも。需要が伸び、全国から呼び寄せた職人を住まわせるために、元は1つの大きなお屋敷の土地の切り売りしたため、袋小路など入り組んだ路地が多くなったのだ。この独特な町並みに隠された秘密にタモリが迫っていく。

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