タモリ、伊能忠敬の測量技術を体験!日本の要になった“ちばらき”へ『ブラタモリ』

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街歩きの達人・タモリが“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る『ブラタモリ』(NHK総合、毎週土曜19:30~)。6月1日の放送は、「“ちばらき”~“ちばらき”はニッポンの要!?~」と題して、タモリと林田理沙アナウンサーが、千葉県と茨城県が利根川をはさんで境を接するエリア“ちばらき”を訪れる。

“ちばらき”とは、歴史的にも文化的にもつながりが深いことから「茨城県史」にまで記載されている愛称で、そこは古い歴史を誇る鹿島・香取神宮、霞ケ浦、「水郷」潮来・佐原など、北関東を代表する観光名所でもある。そんな“ちばらき”は日本の要と言われているそうだが、その理由とは? タモリがブラブラ歩いてその謎を解き明かしていく。

まずタモリが向かったのは、茨城県の鹿島神宮。1300年以上もの歴史をもつ由緒ある神社で、この境内にはなぜかシカが飼われている。そこでわかるのは奈良・春日大社との結びつきで、鹿島の神様が奈良までシカに乗って移動し、都を守ったという言い伝えがあるという。

さらに、奈良の都にとってここが大事な場所であったことを示すものは、本殿の向き。普通は南を向いている本殿がここでは北を向いているのは、東北地方にいて朝廷と鋭く対立していた蝦夷に備えた軍事拠点だったことを示しているという。必要な兵や物資は、当時は現在の2~3倍の広さを持っていた霞ケ浦で輸送され、地の利をうまく生かして“ちばらき”は「要の場所」になっていったのだ。

もう一つ、“ちばらき”を要の地にしたものが、「利根川」だ。かつて、利根川は東京湾に注いでいたが、徳川家康が洪水対策のため“ちばらき”に付け替えた。ところがこれを逆手にとって“ちばらき”の地域は日本の要となるものを次々に生み出したという。

まずは、「田んぼ」。利根川が運ぶ土砂で生まれた中州を、新田に開発。干満の差を利用し、中州に溝と堤防を築くことで一面の水田にし、江戸の食料を支える場所に成長した。タモリは粘土を使った新田開発の再現実験も目のあたりにし、それに納得する。

また、溝を掘ることでできた水路は運搬ルートとしても活躍。遠く離れた江戸・東京に利根川を使って行き来できるようになった。さらにこの水路は「観光」にまで利用され、のどかな田園風景が都会の人々の癒しの場になったとも。水路を通り抜けると利根川の支流が現れ、対岸には花街のある「潮来」が。遊郭、神社など、様々な娯楽を影響する「エンターテインメントの要」になった。

そして、利根川水運の要衝だった街「佐原」にも注目。ここも日本の要を生んだ場所で、ここで商人として活躍していた伊能忠敬が、日本初の本格的な日本地図「大日本沿海輿地全図」を生み出した場所としても知られている。

伊能は、55歳を過ぎてから測量を開始、地球一周に相当する距離を歩いて作り上げ、それが日本地図のベースとなった。きわめて精緻な測量技術が培われた理由もまた、“ちばらき”の地形に。利根川の氾濫に備えて、地域のリーダーだった伊能は、自ら測量技術を身につけ、この経験が後年の全国の測量につながっていったという。タモリも当時の測量器具を使って、その大変さを実感する。

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