永島敏行、実家を継ぐつもりが父の“勝手”で役者デビュー。演技の自己評価は「こんな下手な奴はいない」

公開: 更新: テレ朝POST

1977年、映画『ドカベン』(鈴木則文監督)で俳優デビューを飾り、1978年に出演した映画『サード』(東陽一監督)、『事件』(野村芳太郎監督)、『帰らざる日々』(藤田敏八監督)で第2回日本アカデミー賞の主演男優賞をはじめ、国内の新人賞を多数獲得。一躍若手注目俳優となった永島敏行さん

1981年には映画『遠雷』(根岸吉太郎監督)で第24回ブルーリボン賞主演男優賞など多くの賞を受賞。大河ドラマ『風林火山』(NHK)、『BG~身辺警護人~』(テレビ朝日系)などテレビドラマや舞台にも多数出演している。

37歳のときに農業に関わるようになり本格的に秋田でコメ作りをはじめると、2005年に「有限会社青空市場」を設立。生産者と消費者をつなぐ活動にも力を注ぎ、農業コンサルタントとしても活動する。4月2日(金)には農業や漁業に従事する人々をテーマに描く『種まく旅人』シリーズ4作目となる映画「『種まく旅人~華蓮(ハス)のかがやき~』(井上昌典監督)が公開になる、永島敏行さんにインタビュー。

◆小学生時代から野球少年

永島さんのお父さまは元競輪選手だったが、旅館の娘だったお母さまと結婚したのを機に競輪選手を引退して旅館を継いだという。

-小さい頃はどんなお子さんだったのですか-

「子どもの頃から『勉強しなくていい』と言われていたので、それを信じて全然勉強しなかったんですよね。僕は保育園も幼稚園も行かせてもらえなかったんです。旅館だったので両親がそこで働いているわけだし、従業員もいて大人の目が届くので保育園や幼稚園に行かなくてもいいと思ったのでしょうね。

だから友だちが幼稚園とか保育園に行っている間は、うちが旅館で庭が広かったので庭で犬と遊んだり、虫と遊んだりしていました。今日も妻に言われたんだけど、たたみもの(畳もの)とか折り紙ができないんですよ。普通は保育園とか幼稚園などでやるようなことが。

だから幼児教育はすごく大事だなあと、自分が子どもをもって思いました。その時代にやっていることをほぼやっていなかったので、知らないままおとなになってしまったというか(笑)。

周りはみんな幼稚園に行っていましたから、僕だけ小学校に入ったときはなかなか集団生活になじめなくて、手を挙げるということもあまりできなかったですね」

-野球は小学校の頃からですか-

「そうです。昔はソフトボールとか三角ベースとか、そんな感じで野球ばかりやって遊んでいました。昭和33年に長嶋茂雄さんがプロ野球にデビューして。テレビの野球中継は巨人だけだし僕は本名も永島ですから、野球は子どもの頃から好きでした。でもその頃はリトルリーグとかそういうのはなかったので、町内のソフトボール大会とかに出たりして。中学に入ってはじめて本格的にクラブでやりはじめました」

-高校では主将もされていたそうですね-

「いやいや、それは野球が弱い公立高校で部員も少なかったのでね(笑)。みんなすぐに辞めちゃって人材がいなかったというか。ただ、野球は下手の横好きで、好きでした」

-将来はプロ野球の選手になりたいと思ったことは?-

「いいえ全然。その頃の千葉というのはすごかったんです。僕の世代で銚子商業が全国優勝するんです。うちの学校は2回戦で当たったんだけど、巨人に行った篠塚(和典)選手とか中日に行った土屋(正勝)選手とか。

僕の世代の前後だと中日に行った鈴木孝政さん、中日の監督をやっていた森繁和さん、掛布雅之さん、日ハムの古屋英夫さん…千葉で野球チームが作れるというくらいすごかった時代なので、これはモノが違うと思っていましたから」

-その頃、将来についてはどのように?-

「旅館業が嫌いじゃなかったので、『門前の小僧習わぬ経を読む』じゃないけど知らず知らずのうちに料理なんかはしていたんですよ。小学校1年生ぐらいからやらされていて、料理を作るのは好きだし旅館もあるので、将来的には旅館を継ごうかなと思っていました」

※永島敏行プロフィル
1956年10月21日生まれ。千葉県出身。1977年、映画『ドカベン』(鈴木則文監督)で俳優デビュー。映画『サード』、『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(岡本喜八監督)、『動乱』(森谷司郎監督)、ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』(NHK)、舞台『スタンド・バイ・ミー』など映画・ドラマ・舞台に多数出演。俳優として幅広く活躍しながらも農業をライフワークとし、コメ作りや生産者と消費者との懸け橋となるべく精力的に活動。4月2日(金)に公開される映画『種まく旅人~華蓮(ハス)のかがやき~』では農林水産省次官を演じている。

 

◆映画『ドカベン』のオーディションに合格

お父さまが映画好きだったため、永島さんは小さい頃からよく映画館に一緒に連れて行ってもらっていたという。

「午後の2時くらいから4時くらいまでは、旅館はちょっと空き時間ができるので、おやじがよく連れて行ってくれたので、映画はたくさん見ていました」

-俳優になりたいという思いは?-

「全然。幼稚園にも行ってなかったからお遊戯も学芸会もしたことがなかったので、人前で何かをするということが苦手だったんです。まして人前で芝居をするなんてそんな恥ずかしいことはできないって。中学校とか高校の演劇部を見て、『よくあんな演劇部なんかにいるなあ』って思っていたくらいですから、俳優になるなんて夢にも思っていませんでした」

-『ドカベン』のオーディションはお父さまが応募されたとか-

「そうです。突然おやじから電話がかかってきて、『ドカベンのオーディションの書類選考に出してみたら受かっちゃったから、明日東映に行け』と言うんですよ」

-いきなりですか-

「そう。びっくりしました。突然ですから。『なんでそんなのに行かなきゃいけないんだ』って言ってケンカになったんですけど。でも撮影所に行けば、高倉健さんとか菅原文太さんとかに会えるかなあと思って。それだけでいいやと思って行ったら受かっちゃった(笑)」

-『ドカベン』の漫画はご存知だったのですか-

「それは知っていました。野球をやっていたので水島新司さんの漫画はずっと読んでいましたから」

―オーディションに受かったと聞かされたときは?-

「困ったなあと思いました。その頃大学の野球部に所属していたんですけど、今とは違って連帯責任なので。勝手なことをしちゃいけないんですよ。その頃は本当に厳しくて、誰かが先輩とすれ違うときに気がつかなくてあいさつをしなかった、というくらいのことで全員殴られるというような時代でしたからね。

当時は映画やなんかに出たらダメだったので。レギュラーになるわけじゃないけどそんなことをしたら大変だと。僕はいいけど、同級生に迷惑をかけることになる。

どうせ受かるはずないと思っていたので、みんなに黙ってオーディションを受けに行っていたんですよね。それが受かっちゃったので困ってしまって、東映の人に『すみません。これはまずいから、なかったことにしてください』と言ったらすごい怒られて(笑)。

当たり前ですよね。めちゃくちゃ怒られました。それで、『1日待つから、学校に聞いてこい』って言われたので、野球部の監督と課外体育科の先生に話したら『永島はそんなに野球の才能がないから、人生経験だと思って出たらいいんじゃないの?』って言われました。

僕だけじゃなくて全員殴られましたけどね(笑)。みんなに『お前が役者になれるんだったら全員なれる』って言われました。僕よりみんな芸達者なんですよ」

-はじめて演技に挑戦されたわけですが、いかがでした?-

「こんな下手な奴はいないと思いました。子どものときからずっと映画館に通って、イタリア映画もフランス映画も小津安二郎さんとかも全部見ているわけだから、目は肥えているわけですからね。それがいざ自分でやってみてラッシュを見たときに、なんて下手なやつなんだって(笑)」

-野球部のエースの役でしたね-

「そうです。オーディションでもセリフが覚えられなかったんですよ。セリフは棒読みみたいだったんだけど野球の実技もあって、僕は大学でも野球をやっていたのでオーディションを受けに来た人たちのなかではずば抜けていたんです。それで受かったのかもしれない。『芸は身を助く』で(笑)」

-映画が完成したときはいかがでした?-

「誰にも絶対に見て欲しくないと思いました。みんな馬鹿にしていましたよ。そりゃあそうですよ。僕もそう思いましたもん。でも、これだけみんなに馬鹿にされていいのかって。屈辱というのはやっぱり人間の力になるものですね、本当に(笑)。

それで東映の演劇学校で勉強しようかなと思って、東映でもらったギャラを全部また東映に返して演劇学校に行ったんですけど、3、4回行って辞めました」

-なぜですか-

「バレエで履く白いタイツを配られて、それを履いて演技の練習をする、犬の散歩をするって言うんですね。リードもないし犬もいないんだけど散歩しろと言われて、これはちょっと違うなと思って(笑)。『この白いタイツはちょっとなあ』というのもあったしモッコリしているのも気になって(笑)。この世界にはちょっといけないなあと思いました」

 

◆2作目となる映画で主演、多くの賞を受賞

演劇学校に通うことを辞めた永島さん。俳優になるという思いはまだなく、いずれまた機会があったらというくらいの感じだったというが、すぐにまたそのチャンスが。

「その頃は一般公募というのが結構あって、スポーツ新聞などに記事が出ていたんですよね。それで懲りもせずおやじが『サード』のオーディションにまた勝手に応募して受かっちゃって、『書類選考に受かった』って言われたんだけど、オーディションの日が野球の試合だったんです。

僕は試合に出ていなかったんだけど、『すみません。オーディションに行くので休ませてください』とは絶対に言えない。大学2年だったのでまた殴られる。だからオーディションに行かなかったんですよ。しょうがないなぁと思って。そうしたら『該当者がいないから来てください』って電話がかかってきて(笑)。

それで、東陽一(監督)さんの幻燈社(げんとうしゃ)にオーディションに行ったんだけど、野球部だったので坊主頭、ワイシャツに黒いズボンの学生服で行って、特別何かを聞かれることもなく黙って座って一言二言しゃべって終わり。誰も『ドカベン』に出たことは知らなかったので、僕も言わずに」

-それで主役に決まって-

「はい。寺山修司さんの脚本をもらったら、『野球をやっている寡黙な少年』と書かれていて、とってつけたような話だけど本当なんですよ。東さんが、『お前はしゃべらないほうがいい。しゃべらない姿がいい』と言われて合格したんです」

-高校球児が人を死なせてしまい少年院にという設定でしたね-

「 そうです。軒上泊さんの『九月の町』という原作があって。高校時代野球をやっていたんだけど都会に憧れて、都会に出るにはお金がかかるということで、お金を作るためにガールフレンドが『私たちがからだを売ればいいんじゃない?』と言って。僕と友だちが客引きとボディーガードをするんだけど、客とトラブルになって殺してしまう。それで捕まって、あとはずっと少年院に…という話です」

-衝撃的な作品でした-

「そうですね。寺山修司さんの脚本はセリフを書いてないところが結構あって。たとえば、喫茶店で都会に出るにはお金がいるから売春をしよう、という話になるシーンでは、決まったセリフは書いていないんです。

寺山さんの短歌などは書かれているんだけど、僕らのセリフがきっちり書き込まれているわけではないので、撮影のときに東さんから、森下愛子ちゃんや吉田次昭さんたちと喫茶店で雑談しろと言われて雑談していると、『じゃあ、私たちが売春すればいいんじゃないの? と言って』という感じで、東さんがセリフを入れてくれるんです。

だから、僕らはあまり決まり切った芝居をするという意識がなく、わりと自由にできたという感じでした」

-出来上がった『サード』をご覧なったときはいかがでした?-

「見てわからなかったです、この作品は何が言いたいのかなあって(笑)。人生で自分が何をしようかと迷っている当事者そのものだったので。だから10年ぐらい経って見たときに、『そうか、こういう話だったんだ』と理解できたという感じでした」

-『事件』、『帰らざる日々』など次々と出演作が続き、多くの賞も受賞されました-

「坊主頭でデビューした人だから、田舎者の役が多かったですね。だからよく『じゃがいもみたいなやつだ』とか言われていました。あの時代はゴツいとか坊主頭というのは全然ウケない時代でダメだったんです。今の時代に生まれればよかったなあと思いますよ(笑)」

精悍なルックスと圧倒的な存在感で名だたる監督たちの作品に次々と出演し、実力派俳優として注目を集めることに。次回は藤田敏八監督作『帰らざる日々』の撮影裏話、イギリス短期留学生活などを紹介。(津島令子)

©︎2020KSCエンターテイメント

※映画『種まく旅人~華蓮(ハス)のかがやき~』
2021年3月26日(金)より石川県先行公開
2021年4月2日(金)より全国順次公開
配給:ニチホランド
配給協力:トリプルアップ
監督:井上昌典
出演:栗山千明 平岡祐太 大久保麻梨子 木村祐一(特別出演) 永島敏行 綿引勝彦
映画「種まく旅人」シリーズ4作目。石川県金沢市の伝統野菜「加賀れんこん」を題材に、後継者不在に悩む農業の現実を描く。

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