奥田瑛二、モデルとして活躍するも28歳でホームレス状態に。映画俳優を目指し公園に寝泊まりした日々

公開: 更新: テレ朝POST

1979年、映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』(藤田敏八監督)、映画『もう頬づえはつかない』(東陽一監督)で注目を集め、数多くの映画、ドラマに出演している奥田瑛二さん

2001年には『少女 an adolescent』で映画監督デビューをはたし、これまでに5本の映画を監督。監督3作目となる映画『長い散歩』は「モントリオール世界映画祭」でグランプリなど3冠を受賞。私生活ではエッセイスト・コメンテーターの安藤和津さんと結婚。長女の安藤桃子さんは映画監督、次女の安藤サクラさんは女優として活躍。義理の息子にあたる柄本佑さんと共演した映画『痛くない死に方』(高橋伴明監督)が現在全国順次公開中の、奥田瑛二さんにインタビュー。

◆すべては俳優になるためだった

愛知県で生まれ育った奥田さんが俳優を目指したのは小学校5年生のとき。映画『丹下左膳』を見たことがきっかけだったという。

「衝撃的でした。それまでは二枚目俳優の大川橋蔵さんの『新吾十番勝負』とか、中村錦之助さんの『一心太助』だとか、そういうのを見て、カッコいいと思っていたのですが、あるときオールスターの正月映画がやっていたんです。

その映画に大友柳太朗さんが出ていて『この人なかなかだな』と思い、豪放で豪快なキャラクターに惹かれました。それで『丹下左膳』の化け物と言われた男というのが強烈で。昼間は酒を飲んでいるだけなのですが、刀を抜いたらすごいわけですよ。その豪快さに惹かれちゃって、ある種シンドロームです。

大友柳太朗さんの何かが体に入ってきて突き抜けていくみたいな感じで、もう夢中になって、『このスクリーンのなかに行きたい』と思いました。そこからですよね。高校3年生まで誰にも言わずに俳優になりたいという思いを秘めて生きていました」

-部活も俳優になるために入られたそうですね-

「そうです。うちの家系はみんな小柄なんです。150cm台とかね。映画俳優はスクリーンで見ると大きく見えるから、カッコよくてスラッとしていなきゃいけないという思い込みがあったんです(笑)。

それで、野球をやれば背が大きくなるだろうという幻想を抱いて野球部に入ったのですが、全然大きくならなくて、高校のときは152cm。東京に行ったらとんでもない生活が待ち受けているだろうと思って、高校では集団格闘技と言われるラグビー部に入ったんです。

毎日走り込むわけじゃないですか。走っている間に背も高くなるだろうと思っていたら、実際に3年間で27cm伸びました。中学校のときは(並ぶと)前から1番目か2番目の低さだったのに、高校生になってからは174cmまで伸びて、クラスでは後ろのほうになったんです。

それで『よし、映画俳優になれる』という確信をもったのですが、進学指導もあるから親にも言わなきゃいけなくなって。このまま名古屋にいたのでは映画俳優になれないという思いがあって、おやじに『東京の大学に行きたい』と伝えたのですが、『ダメだ。名古屋の大学に行け』と言われました。

『役者になりたい』ということを言ったら、おやじに絶対にぶん殴られるから、年子の優秀な姉に相談しましたが、『たわけ! あんたみたいなバカが映画俳優になれるわけがないでしょう。映画俳優は頭がよくなければなれないんだよ』って言われて(笑)。

姉は新劇かぶれだったので、文学座とか俳優座、そういう芝居を見ていたんじゃないかな。それで最後の砦(とりで)のおふくろに話したら『あんたの好きなようにすればいいわ』ということになって、どうやって東京に出ようかということになりました。

正座しておやじに『相談がある。僕は東京の大学に行って見聞(けんぶん)を広めたい。卒業したら25歳で市会議員になって、30歳で県会議員になって、40歳から50歳の間に国会議員になる』って言ったんですよ。

そうしたらおやじが『うーん』と腕を組んだんです。それで、内心『やったー』っと思ってツバを飲み込んでいたら『わかった。じゃあ条件がある。衆議院議員の先生のところに部屋住みの書生として入るならば行かせてやる』というので、一生懸命勉強をしました。

ずっと部活動ばかりやっていたものだから、高校1年生のときにはクラス52人中10番くらいだった成績が、3年生の夏には52人中51番かそんなものだったんですよ。それで進路指導の先生に『お前が行く大学はない』って言われて(笑)。

早稲田大学だなんだって言ったら『バカ!』と先生に怒られたから、『ちょっと待ってくれ、先生。1年生のときの成績表を見てもらえばわかるから』と言い、職員室から1年生の成績表をもってきてもらいました。

それで、『ねっ? いい成績でしょう? これからまだ半年ある。猛勉強するからよろしくお願いします。内申書のほう』と言ったら『バカ』と頭をポンと殴られたりしましたけど、必死に勉強してどうにかこうにか東京の大学に入ることができて通うことになりました」

※奥田瑛二プロフィル
1950年3月18日生まれ。愛知県出身。モデルとして活動後、1976年に『円盤戦争バンキッド』(日本テレビ系)に主演。1979年、映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』、映画『もう頬づえはつかない』で注目を集め、1986年、映画『海と毒薬』(熊井啓監督)に主演。毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。1989年、『千利休・本覚坊遺文』で日本アカデミー主演男優賞、1994年、『棒の哀しみ』(神代辰巳監督)でキネマ旬報をはじめ、数々の主演男優賞を受賞。『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(TBS系)、『男女7人夏物語』(TBS系)などテレビドラマにも多数出演。監督3作目の『長い散歩』が「モントリオール世界映画祭」でグランプリほか3冠を受賞するなど映画監督としても才能を発揮している。

◆高校のOBである俳優・天知茂さんの自宅に1か月間日参

高校卒業後、明治学院大学法学部に入学して上京した奥田さんは、代議士の家に住み込み、書生生活を送ることに。

「おりしも70年安保の真っ盛りで、すぐに大学がロックアウトになって。代議士のところに住んでいましたから、毎日議員会館に行って、ハガキ書きとかをやりながら修学旅行の生徒とか、靖国に参拝する人を案内したり、皇居の掃除をする奉仕団という人たちを案内して…というような書生生活をしていました。書生も5、6人いましたからね。国会の通行証ももっていて、今でも取ってあります(笑)」

-書生生活はどのぐらい続いたのですか-

「書生は2年半ぐらいで辞めました。やっぱり俳優になるために東京に来たんだし、大学は閉鎖中ですから、今がチャンスだと思って。それで劇団を受けようと思ったのですが、当時、俳優座(養成所)は桐朋学園(桐朋学園芸術短期大学)という大学になって、文学座はその年の試験が終わっていて、民藝は隔年で募集だからその年は募集せずということでした。

田舎から出てくるとその三つしか知らないんです。それで、ダメだなあと思っていたら、高校の授業中に先生が『我が校では有名な方が2人いる。1人は防衛庁長官の江崎真澄さん。もう一人は映画俳優の天知茂さん』と言ったのを思い出しました。

高校のときは部活が激しいものだから授業中は寝ちゃうんです。それで6時間目が終わると起きて部活に行く。授業中はだいたい寝ていたのですが、その話のときだけはなぜかパッと目が覚めて、先生が自慢していた話が脳裏にこびりついていました。だから、劇団がダメだってなったときに名古屋出身の人にいろいろ聞いて、天知さんの自宅に行ったんです」

-いきなりですか?-

「そう。それで奥さんが出てらして、『付き人は3人もいるから、あなたが来ても入る隙がないよ。だからお帰りなさい』と言われて帰ったのですが、気がすまなくて、また次の日に行って、結局1か月間日参したんですよ、雨の日も毎日。

そうしたら、奥さんが『あなたは本当に我慢強いというか辛抱強いというか…呆れちゃうわね。じゃあ、うちのパパに言っておいてあげるから、事務所のほうに行きなさい』って言われて付き人にさせてもらいました。給料ももちろん何もなしで」

-その間の生活はどのようにされていたのですか?-

「おふくろに2万円仕送りをしてもらっていました。付き人をやっていれば、ご飯は食えるわけですよね。先生が親子丼を頼んだら僕は玉子丼、先生がざるそばを頼んだら僕はもりそば、先生がきつねうどんを頼んだら僕は素うどん。そういう暗黙のルールみたいなのがありました。先生より高いものを頼んだ日には、兄弟子にぶっ飛ばされますからね。

それと同時にガールフレンドがいたものですから、恋人がね(笑)。彼女に助けられました。彼女が料理屋の娘だったので、しょっちゅう食べさせてもらっていました」

約2年間、天知茂さんの付き人を続けていた奥田さんだが、兄弟子たちの姿を見るうちに俳優としての将来に不安を感じ、夜逃げ同然に飛び出してしまったという。

「おふくろからの仕送りはしばらく続いたのですが、天知さんのところを逃げ出した後は、仕送りもなくなるし、もうバイトするしかなくて。大学も結果的には6年で除籍処分になるんです。だけど、6年間は大学に行かないで学費を払ってもらっていたわけだから、その金額のことを何かの拍子におふくろに言ったら大ビンタを食らったことがあって。それでようやく気を取り直してまじめに生きていこうと思いました(笑)」

◆夜逃げ同然で飛び出してアルバイト生活。“酒池肉林”の日々に…

天知茂さんの事務所で多くのことを学ばせてもらったと話す奥田さんだが、夜逃げ同然で飛び出し、アルバイト三昧の生活を送ることに。

「バイト生活に明け暮れるなかで、もう本当にとんでもない生活になっていくわけですよ。酒と女となんとかっていうやつでね(笑)。それでそこから抜け出すのも大変でした」

-いろいろなアルバイトをされていたそうですね-

「最初は深夜スナックのボーイだったのですが、接客に回されて、そのうちにボーイ接客兼弾き語りもやるようになって、給料も少しずつ上がっていって。夕方の6時から朝の6時までが営業時間なものですから、そりゃあもうひどい生活でした(笑)」

-もともと昔からかなりモテる方ですしね-

「モテましたね。モテなかったことは一度もない。これは事実だからね。ウソのつきようがないんですよ(笑)」

-「不倫したい俳優No.1」と称されていたくらいですからね-

「ありましたね。そんなことも(笑)」

-今の時代ではあり得ない称号ですね-

「そうですよね。それは『男女7人夏物語』とかのドラマが話題になったからだったんでしょうけど。とは言っても、当時僕は節制するとか、世の中の俳優としての良識みたいなのが本当にどこかに行っちゃっていたので(笑)」

-一時はホームレスみたいな状態にもなったとか-

「3か月間でしたけど、28歳の6月から8月くらいまではホームレス状態でした」

-モデルとして結構売れていたそうですが、ホームレスに?-

「24歳から25歳のときは、受けるオーディション全部に受かって、デパートのポスターをはじめ、引く手あまたなときもありましたけど、あくまでもなりたいのは映画俳優でしたからね。オーディションに20個くらい連続で受かった時点で『モデルを辞めます』とモデルクラブの社長に言ったら、『バカ! 勝手にしろ』と怒られて(笑)。

その声を聞きながら、『だったら一人前の役者になって恩返しをしなきゃな』と思い、すぐに役者に転じ、幸いなことにいい事務所が見つかって、結果的にはその事務所に36年間いたんです。

そこですぐに『円盤戦争バンキッド』という戦隊もののオーディションで主役に決まって、『やった。このままイケる』とモデルのときよりも調子づいて思ったら、夜の重厚なドラマとか木下恵介劇場とか、そういうドラマのオーディションに全部落っこちるんですよ。

それで、当時子ども番組の主役は何の意味もなさないんだなって思い知らされて。プロデューサーのなかには、パッと履歴を見ただけで、『ああ、ジャリ番な』って言って、ポンと資料をぶん投げる人がいたりしてね。そういうのが逆にエネルギーになったんですけど。

それで、元には戻れないし、水商売にも染まりたくなかった。家賃はもう2年ぐらいためちゃっていたから追い出されて、結局公園で寝るしかなくて。

ホームレスとしてどうやって暮らすか、段ボールで寝場所を作るかって考えたのですが、やっぱりそうしちゃうと本当のホームレスになっちゃうから、公園で寝ようと思って。僕の場合は3か月ですみましたけど、ポケットのなかに50円玉1個だけもっていたので、これ使ったら終わりだなというのがありました。

代々木公園で寝そべって空を見ていたときに、『もうじき29歳になる』なんて思いながら、30歳になったら、俳優をあきらめて、どこかへ入植して農業をやって生きていくか、農園で下働きで働こうっていうのをイメージしたんですよね。

だけど、『いや、ちょっと待てよ。10年間努力してきて、あと1年というのもかわいそうだから、1年プラスして31歳までにしよう』と、気合いを入れて代々木公園の近くに住んでいるモデル仲間のところにシャワーを浴びに行ったんです。

それで、シャワーを浴びて出てきたら、彼のガールフレンドがそうめんを用意して食べさせてくれて(笑)。それで彼から『きょう、何をやるんだ?』って聞かれたから『何もしねえよ。また公園に行って寝るだけだ』と言ったら、パーティーがあるからって誘われました。

でも、50円しかもってないから会費の3千円が払えないわけですよ。そうしたら彼が僕の分も出してくれると言うので、2人で六本木にあるクラブに行ったんです」

そのパーティーで奥田さんは、奥さまの安藤和津さんと運命の出会いをすることに。次回は奥さまとの出会い、結婚、映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』出演裏話などを紹介。(津島令子)

 

©︎『痛くない死に方』製作委員会

映画『痛くない死に方』全国順次公開中
配給:渋谷プロダクション
監督:高橋伴明
出演:柄本佑 坂井真紀 余貴美子 大谷直子 宇崎竜童 奥田瑛二
在宅医療のスペシャリスト・長尾和宏医師のベストセラーを映画化。家庭崩壊の危機を抱えながらも、在宅医だからこそできる医療を模索し、成長していく医師(柄本佑)の成長を描く。

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