大沢悠里、50歳でフリーアナウンサーに。お金のためではなく「満足のいくラジオをやりたい」

公開: 更新: テレ朝POST

1964年にTBSアナウンサー第9期生として入社し、1969年以降はラジオを中心にワイド番組を担当してきた大沢悠里さん。1986年にスタートし、2016年まで30年間続いた4時間半の生ワイド番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』は絶大な人気を誇り、15年近く聴取率1位を記録。現在は、毎週土曜日に生放送の『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』(TBSラジオ・午後3時~5時)を担当している。

◆家族写真もないくらいカメラが嫌いで…

アナウンサーという職業ながらカメラが大嫌いだという大沢さん。家族写真もほとんどないと話す。

「僕は写真が本当に嫌いでね。テレビをしばらくやったことがあるんですよ。テレビをやったけど、カメラがあるとダメなんだよね。だから家族で撮った写真もない。仕事では仕方がないから撮るだけで、家族と一緒に撮ったとか、娘と一緒に撮った写真がないんですよ。どうしてなんだろうって自分でも思うけど、映るのがいやなんだよね。自分の顔がいやなんですよ」

-もったいないですね。カメラが嫌いというのは昔からですか?-

「わりあい。前に出たがらない、本当は。出たがっていたらテレビに出ていたでしょうね。だからラジオが1番いいんですよ、声だけだから。それにラジオだから、この歳までやれたのかなあって思います。テレビをやっていたらこうはいかないでしょう。ワイドショーだって30年間続いている番組はないもの。年は取ってくるしね。

だから徳光(和夫)さんは偉いと思う。同じアナウンサー出身で、僕と同い年だけれど、ラジオもやっているし、テレビもやっているしね。徳光さんは偉いなあと思って感心していますよ。あの意欲にね。もう僕は意欲ない(笑)」

-アナウンサーになったばかりの頃はどんなことをされていたのですか?-

「アナウンサーはみんな、徳光さんもそうだと思いますけど、電車のなかで外の中継をするんですよ。口のなかで目に入るものを実況したり、町を歩いて景色や人の動きとかをリポートするんです。

『はい、こちら赤坂。一ツ木通りを歩いています』とか言いながら。そういうことが好きだったんですよね。だから趣味(笑)。

今でもこんなに長く56年間やり続けているのは好きだからね。好きじゃなきゃこんなに続けていないですよ。だから僕は本当に好きなことを見つけたということですね。それでこの年までやれたということが、本当に幸せだったと思います。

よく『大沢さん、テレビで活躍したかったでしょう?』って言われるけど、全然思わない。テレビに出て町を歩いているときに振り返られたり、何か言われたりするのはいや。

町を普通に歩いて、普通のラーメン屋さんに行って、煙のもうもうとする焼き鳥屋さんで一杯やったり、人と会ったり…送り迎えされるんじゃなくて普通に電車に乗って通ったり、カミさんとスーパーに行ったりね。

僕は1週間に一度カミさんと買い物に行くんですよ。カミさんも老婆になってきましたから『老婆の休日』。これは『ローマの休日』に引っかけた昔からのシャレだけど(笑)。

カミさんと一緒に商品を選んでいても誰も気がつかないし、なんということはないんですよ。これが顔出しをしていたら、そうはいかないでしょう? だからテレビはいやなんです」

-お名前は皆さんご存知ですから、テレビにも出るように言われたのでは?-

「それは言われましたけど、ちょっとテレビに出ただけで、振り返られたりするんですよね。テレビはラジオの100倍、200倍、300倍、1000倍くらい影響力があるから、みんな振り返ったりするわけ。

振り返ってもそれは尊敬されているわけじゃない。チンパンジーが町を歩いていても振り返るんだから、人気と勘違いしちゃダメだよって新人アナウンサーにも言っているんですよ。

ちょっと顔が知られるようになると、店に入ってもまけてもらったり、サービスされたりするのが当たり前のような気になるやつがいるんだよね。そうならない人もいるけど、なる人もいるから怖い。

急に変わるものなんですよ。圧倒的に違うからね。テレビに出ると、ひな壇に座っているだけで、何十万ももらっちゃったりして生活もガラッと変わっちゃう人がいるんですよ。

4畳半ひと間で生活していた人が、すごく派手な生活になっちゃったりするんだけど、そういうのは長くは続かないから。でも、本人はそういうことがずっと続くと思っているから、落ちたときに対処できない。だから、僕はいつも『貯めておきなさいよ。普通の生活をしていればいいんだから』って言うんだけどね。

テレビをやる人はしょうがないけど、ラジオをやる人は、普通の生活をして電車で通いなさいよっていつも言うんですよ。そうすると町の景色も変化も見えるし、いろんな人がいることもわかるし、こんなおもしろいことをする人がいるんだって勉強になるからって。そうすると話の内容も広がるでしょう? なんでもそうですよね。なんでも勉強になるんだから」

◆30年間無遅刻で毎朝6時スタジオ入り

『大沢悠里のゆうゆうワイド』は毎週月曜日から金曜日まで、朝8時半から午後1時まで4時間半の生放送。30年間、毎朝6時にはスタジオ入りをしていたという。

「家は横浜ですけど、朝が早いからということでTBSの近くにひとりで住んでいるんですよ。朝が早くてバスもないから、車で迎えに来てもらったこともありましたけど、朝4時に起きてバタバタやっていると家族を起こしちゃうでしょう? 仕方なく月曜日から金曜日までは赤坂に泊まって、土日は家に帰るという生活をずっと続けてきたんですよ。

それで、5年前に1週間に1度土曜日だけの放送になったんだけど、TBSまで歩いて来られるし、その生活が捨て難くてね(笑)。だから、今は土曜日にラジオが終わると日曜日に横浜に帰って、日月火と過ごして水曜日に赤坂に来るという感じ。それで大体、水木金で色々な人と会ったりするというスケジュールなんだけど、今はコロナのことがあって自粛していますけどね。

日月火は家族サービス。カミさんと買い物に行ったり、近くにドライブだとかね。そういう生活をしています。そのほうが気分的にお互いいいしね。僕がずっと家にいるのもカミさんがツライだろうし、僕もツライから、好きなように人生を送ろうということでね。

カミさんも妻の前に女なんだし、人間なんだから好きなことをやってほしいしね。『僕も一生懸命頑張って、蟻じゃないけどお金も少しは貯めたんだから、好きなように使っていいから何でもしなさい。僕は僕で好きにやるけど、裏切るようなことはしないから安心しなさいよ』って言いながら、ずっとやってきたのでね」

-すてきですね-

「まあ、それもラジオをやっていたからなんだよね。だから、ラジオをやめたら、さっさと戻りますよ。ムダだもん。ラジオがあるから友だちもできて会うようになったけどね。だからそういう意味では、中学、高校が放送部、大学は放送研究会で、クラブ活動がそのまま今日まで続いているという感じなんでしょうね」

-それにしても、週に5日間、毎日4時間半の生放送というのはかなりハードだったと思いますが-

「台本がないですからね。キューシート(番組進行表)はあるんだけど、何も書いてないんです。時間だけ書いてあるんですよ。これを自分で埋めていくわけです。テレビの場合はVTRがあって、その間を繋いでいくという感じでしょう?

インタビューというのは構成者がいて質問事項もある程度決まっている。それが、窮屈なんですよ。だから、ゲストが来て打ち合わせのときには僕がやるんです。それで自分なりの考えで流れを決めると、スタッフがサポートしてくれる。だから作家がいないんです、この番組は。普通はいるんですよ。

4時間半の生番組を30年やったけど、構成作家がいないんです。ものによってはあいさつまで書く人がいますからね。そんなことやってられないでしょう? 4時間半も(笑)」

-すべてご自分でとなると、かなりハードだったのでは?-

「そうですね。月金の放送をやるときには翌日のゲストのことを調べておかなきゃいけないんですよ。昔は資料部にいた人が本当によくやってくれたと思うんだけど、新聞の切り抜きを全部ファイルにしてもってきてくれるんですよね。

30年、40年前の新聞なんて、もう赤茶けているんだけど、それを1枚1枚めくって、刑事じゃないけどメモしていって頭に入れていく。それで、ゲストの書いた本があったら、事前に2、3冊読んでおくということをしなきゃいけない。それから最近はどんなことをしているかということも調べておかないといけない。そういうようなことの準備に結構時間がかかりました。

それに、その人が出ているお芝居やミュージカル、映画も見に行かなくちゃいけない。そういうことで、放送が終わると本当に忙しかったんですよ。

まだ出版されていない著書の場合は、放送前日の夕方くらいに分厚いゲラが届いたりしてね。翌日の放送までにそれを一冊読むのが大変なんですよ、これが(笑)。だけど、それを読んで刑事みたいに克明にメモしていかなきゃいけない。そういうことをやっていると深夜の1時とか2時までかかっちゃうでしょう? 赤坂に来たときは、起きるのがちょっと遅くなりましたけどね。

そういうことをやっておかないと放送ができないからね。睡眠時間は3、4時間だったかな。それでもやっぱりおもしろい話を聞けないことが多いですよ。会心の話というのは珍しいです。だからいつも反省ばかりですよ。『ああ、あそこでなぜ突っ込んでおかなかったのかな』とかね。

夢のなかで『今日のゲストのときに、あそこでなぜこういかなかったんだよ』とか、自分で思うんですよ、今でも。いけないところを考えちゃうんです。だから反省。細かいことを言ってと思うけど、それを反省しておかないと、次にまた同じことをしちゃいますからね」

-大沢さんほどベテランの方でもですか。でも、そういうふうにしてらしたから、長く続いたのでしょうね-

「そう。同じ聴くにしても、やっぱり聴き方を変えなきゃね。もう飽きるほど聞かれていることがあるじゃないですか。でも、この番組でははじめて聴いている方もいるから、同じことを聞かれても、それをいやに思わせないように引き出すということも大事だよね。だから反省ばかりですよ。寝ながら反省するんだよね(笑)。

いい話、会心の話はそんなに出ないなあという感じですよ。でも、まあ引き出すというか、その人と一空間を楽しく話せばいいかなという感じでやっています」

 

◆50歳のときに退社してフリーに

1991年、50歳で大沢さんはTBSを退社し、フリーアナウンサーとして活動することに。

「TBSにいた頃から『あのラジオのコマーシャルやっている人は誰ですか?』とか、『ナレーションをやってもらいたいんですけど、どうですか?』という問い合わせが結構あったんですよ。それで、『実は僕はTBSのアナウンサーなので、局以外のことはできないんですよ』って言いながら、裏でチョッチョッとやっていたんですよ。結構やっていた(笑)。

コマーシャルもやっていたしね。僕は一応『専門職部長』という肩書きだったんだけど、古いから形だけね。そうしたら人事部に呼ばれて、『大沢さん、アナウンス部の部員のアルバイトが多すぎますから注意してください』って言われて、1番やっているのが2人いて、そのうちの一人が僕だったんですよ(笑)。

それでからだが丈夫だったら何とかやっていけるだろう、食うぐらいはできるだろうって思って。やっぱりいろんな仕事がしたかったんですよね。ナレーションもしたかったし。

一つの番組以外のいろんな世界も見てみたいからというので、TBSを飛び出して。飛び出すと、やっぱりそれだけに責任感もあるし、仕事をしないと仕事が来なくなっちゃうということもあるからね。

飛び出したことはよかったと思うんだけど、お金のためじゃないんですよ。よくタレントさんが貧乏から抜け出して、お金をもらってきれいなおかみさんをもらって、家を建てて外車を乗り回すのが夢だっていう人がいるんだけど、僕はそうじゃないんですよ。

ラジオをやりたいからね。満足のいくラジオをやりたいということで、お金はそこそこ食べられればいいかなぁっていうくらいの気持ち。おかげさまで『大沢悠里のゆうゆうワイド』のほかに、『クイズところ変れば!?』のナレーションだとか、『FMヨコハマ』とか、結構いろいろ話が来て、講演会も多かったですよ。

ラジオだけだと『どんな顔してるんだろうか』というのが楽しみらしくて、講演会に呼ばれるとみんな顔を見にくるんだよね。それで、結構満席になるんですよ。講演会と言っても漫談みたいなもので、落語的な話をしながらウケたっていう感じで中身は何もないんだけどね(笑)。

それで一つの商工会なんかでやると、隣の町の商工会で誰かいないかってなったときに、『大沢はどうだろうか?』というようなことになって。僕はまた安いんですよ、ギャラが。『お金はおまかせします。そちらの予算でいいですよ』なんてカッコいいことを言っちゃったもんだから、タダのこともあったけどね(笑)。

やっちゃうんですよ。それが評判で、多いときには年間100回ぐらいやったかな。フリーになると給料が入ってこないでしょう。有給(休暇)もヘチマもないんだから、とにかく働かなくちゃいけないという感じでしたね」

月曜日から金曜日まで4時間半のラジオ生番組に加え、講演会、イベント、ナレーションと超多忙なスケジュールをこなしていた大沢さんは、フリーになって3年後、53歳のときに倒れてしまったという。次回後編では脳梗塞、体調管理、健康法、ラジオへの思いを紹介。(津島令子)

※『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』
毎週土曜日・午後3時~5時生放送(TBSラジオ)
パーソナリティー:大沢悠里
パートナー:西村知江子
※2021年2月20日(土)は筒美京平さんのリクエスト特集を放送

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