デビット伊東、YouTuberがやるような“無茶なこと”を「僕らはTVでやってきた」B21スペシャルが挑んだハード企画を回顧

公開: 更新: テレ朝POST

1986年にヒロミさんとミスターちんさんと3人で「B21スペシャル」を結成し、西の「ダウンタウン」、東の「ウッチャンナンチャン」と並ぶ人気お笑いグループのメンバーとなったデビット伊東さん。ライブ活動や『危険なRevue ギャグ満点』(TBS系)のようなバラエティや『1or8』(フジテレビ系)など体を張った過激なパフォーマンスで話題となり、多くのテレビ番組に出演。それぞれソロ活動も開始し、ドラマ『聖者の行進』(TBS系)、映画『花より男子ファイナル』(石井康晴監督)など俳優としても活躍。2000年、テレビ番組の企画がきっかけでラーメン店を開店。一時はラーメン店経営に徹していたが、現在はラーメン店と並行して俳優、タレントとしても活動。2月13日(土)には、北村優衣さんとW主演をつとめた映画『かくも長き道のり』が公開されるデビット伊東さんにインタビュー。

◆体育教師志望からお笑いタレントに

小さい頃からスポーツが得意だったデビットさんは、高校在学中はラグビー部に所属し、体育の教師志望だったという。

「高校卒業後、1浪しながら水泳のコーチをやっていたんですけど、『こんなのでいいのかなあ?』って思って、歌舞伎町にある『オスカル』というショーパブで働きはじめたんです。

きっかけはアルバイト。お金の問題もあるし、新宿は実家のある埼玉から電車で一本だったので、昼間は(埼玉の)プールで働いて、夜は歌舞伎町のショーパブで働いて、始発で帰るという生活でした。若いから寝なくても平気という感じで(笑)」

-ヒロミさんとちんさんと出会ったのは「オスカル」で?-

「そうです。『オスカル』でNo.1がちんさん。踊りができたので、『劇団四季』とかを受けていたんです。背の高さで落とされちゃうんですけどね(笑)。

それでヒロミさんがNo.2。僕はずっと下のほう。いろんな人がいたんですよ、しゃべりが達者な人だとか。

ちょうどその頃、お客さんで『星セント・ルイス』のセントさんを紹介してもらって、ヒロミさんとちんさんと3人で…というのがはじまりです」

-最初から3人は気が合うという感じでした?-

「いや、まったく。だってヒロミさんですよ(笑)。ヒロミさんが適当に僕たちを選んだんじゃないですか。

ちょうど僕たちのときはDCブランドとかが流行(はや)っているときで、『こんなやつにスーツを着せてコントをやったらおもしろいんじゃないか』っていう先見の明があったのかもしれませんね、あの人には。

何かやっている、動いているということが楽しかったですね。歌舞伎町で働いて、朝がた怖い人たちに追いかけられたりという経験もしながら、セントさんのところに修業に行って、3人で稽古してはセントさんに見てもらうという日々でした」

-ずっと埼玉のご実家から通っていたのですか?-

「いえ、しばらくしてヒロミさんとその店で働いていたDJの方の家に僕住んでいました。3人で住んでいたんですよ、8畳一間に。

僕の寝床は押し入れのなかでしたからね。押し入れの幅って180cm。狭いけど、僕の身長とピッタリなんですよ(笑)。

『お休みなさい』って言って、自分で襖(ふすま)を閉めて寝る。そういう生活もしていたんですよね。

それで『オスカル』が1年ぐらいでつぶれちゃって。当時、ヒロミさんとちんさんと3人で『B21スペシャル』を結成して動きはじめたばかりでしたからね。閉店は痛かった。

水泳のコーチのバイトもしていましたけど、コントの練習に忙しかったから、ほとんどバイトが入れられないんですよ。

だからお金はありませんでした。インスタントラーメンがあると、ヒロミさんとDJの方が麺を食べて、僕は残ったスープにフランスパンを浸して食べたりしてましたからね。

こんな食事ばかりだとツライですけど、何とかなるものなんですよね。師匠のセントさんや『オスカル』で贔屓(ひいき)にしてくれていた女性とかが食べさせてくれたりして」

※デビット伊東プロフィル
1966年8月12日生まれ。埼玉県出身。1986年、ヒロミさん、ミスターちんさんとともにコントグループ「B21スペシャル」を結成し、人気を博す。1990年、ゴールデン・アロー賞芸能新人賞受賞。ドラマ『聖者の行進』(TBS系)、『月下の棋士』(テレビ朝日系)、映画『図書館戦争 THE LAST MISSION』(佐藤信介監督)、舞台『憑神』などテレビ、映画、舞台に多数出演。2000年、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)の企画がきっかけでラーメン店を開店。現在全国で4店舗経営する実業家としての顔ももちながら俳優、タレント業と両立させており、2月13日(土)には主演映画『かくも長き道のり』の公開が控えている。

◆六本木のショーパブで大人気、テレビの世界へ

「オスカル」がつぶれてから1年あまり経った頃、3人はセントさんに付けてもらった「B21スペシャル」というグループ名で六本木のショーパブ『バナナパワー』のステージに立つことに。そこで、「ダチョウ倶楽部」や「ちびっこギャング」、まだコンビを組む前の「ホンジャマカ」の恵俊彰さんと石塚英彦さん…個性的な面々と出会ったという。

「『バナナパワー』ではじめてそれなりの給料をもらうようになって、月に2、30万円もらっていたんじゃないかな。ストリップショーとかいろいろあって、そしてうちらがコントを1日に3回ぐらいやるのかな。

うちらは最初からメインの金曜日と土曜日をやっていたので、ある程度収入があったんです。

それで、コントの終わりのとき、最後にパイをぶつけられるんですよ。それがコージーコーナーのパイでおいしくてね。

1個ぶつけられると300円のバックマージンがあるんです。それが大きかった。だから必死にパイをぶつけられていましたよ(笑)。

大手の芸能事務所から『給料7万円払うから』ってスカウトされたこともありましたよ。でも、『いや、俺たちは30万円もらっているからいいです」ってお断りしましたけどね」

-「B21スペシャル」として活動をはじめて、テレビに出るようになったのは?-

「うちらは本当に早いんです。とんとん拍子なんだけど、人の倍以上、僕たちは稽古をやっていましたからね。

六本木で働いていたら、みんな遊びに行くと思いますよね。だけど、僕たちは新宿の中央公園に行って、そのままコントの稽古をしたりとか、その次の日にセントさんのところに行ってコントを見せたりとか…人の倍以上やっていたと思う。

今は学校とかあるじゃないですか。学校のなかでやったり、外でやったりとかするけど、多分それの倍以上、稽古に時間をかけていたと思う。デビューしてもそのクセは抜けず、ずっと練習していました。ひたすら」

-今だったら絶対に放送できないようないろいろなことにチャレンジされていましたね-

「はい(笑)。だから今、ユーチューバーとか、無茶なことをやる人がいっぱいいるじゃないですか。でも、僕たちはそれをテレビでやってきたので、何の興味もないんです。すべてやってきましたから。

よくやりましたよね(笑)。すごかったですよ。もうやるしかない。『行け!行け!』ってなっちゃったんですよね」

1991年に放送された『1or8』では3人が、今では考えられないようなハードな企画に体当たりでチャレンジして話題に。しかし、ヒロミさんの背中に大量のロケット花火(6000本)を背負わせて点火し、宇宙へ向けて発射しようという企画で、ヒロミさんが大やけどを負ってしまい、2か月間入院することになる。そして番組は終了。

「ヒロミさんがやけどしなかったら大変なことになっていましたよ、きっと。ヒロミさんのやけどがなければ、次の日から沖縄に行くはずだったんです。

沖縄でちんさんがハブと戦うという企画で。ちんさんは頭に羽二重(はぶたえ)をして出てくるという出オチなんですけど。

あと、鵜飼(うかい)の鵜に負けるなって言って、俺が潜って魚を飲んで、浮び上がって来て吐き出すとか…そんなことばかり考えていましたね。

おもしろくなったのは、無人島に行ったときかな? 無人島に3日間だったんですけど、あれはちんさんの企画でちんさんが本当は無人島に行くはずだったのに、当日、いきなり変わって僕になったんですよ。『もうこれはやってられるか』って。

でも、船は出ちゃうし、映像は撮らなきゃいけないという使命感がある。そこでやっぱりひらめいたんですよね。

『これは楽しくしよう』と思って、裸になってみたりだとか、家を作ってみたりとか。

そうしたら3日が1週間に延びて、体重が15kgも落ちちゃって…。でも、それがやっぱり『おもしろい!』ってなるわけですよ」

-ヒロミさんは大変でしたけど、デビットさんとちんさんはよくご無事でしたね-

「ほんとですよね。ケアしてくれる人が誰もいないですからね(笑)。ほんとに自分たちで撮っていましたから。

そのあと日テレが『進め!電波少年』を作ることになって、うちらでやるって言われたんだけど、『もう、うちらは限界です。お断りします』って言って、アッコ(松本明子)ちゃんになって」

-いいとか悪いとかは別として勢いはありましたね-

「そう。テレビが1番ステキなときかな。僕たちももがいていたし、自分たちがレギュラーを取るのも含めて、視聴率という戦線のなかで、先輩たち、まだ大御所がいるなかで倒さなきゃいけないという、そのもがきのなかでやっていましたね」

◆「やめる!」と言ったら、いきなり給料が0円に?

-ヒロミさんとちんさんは「やめる!やめない」という話をよくされていたとか-

「本当に稽古の最中とか、新宿で働いているときからしょっちゅう言っていましたよ。

僕が『まあまあ』って言って。どちらかというと僕は体育会系なので中立の立場になるというか、後輩だし、『やりましょうよ。ちゃんとやりましょう』って。

僕が『もうやめた』って思ったのは、1回だけです。芸能界に入って、がむしゃらに走っていると、必ず息切れするじゃないですか。そのときに壁にぶち当たるんですよね。

『お金は入ってくるけど、このままでいいのか?』って。それでヒロミさんに『やーめた』って言ったら『わかった』って言われて。

それで次の給料日になったら、僕の給料が0円だったんですよ。『そんなのあるか?』って思って(笑)。

『俺が頑張ってきたものはどこにいったんだ? そんなのあるか? やるよ、やっぱり』って。

そんな理不尽なことはないでしょう? 0円ですよ(笑)」

-それでまた続けることになって、結果的にはよかったですよねー

「『ナニクソ!』って思っちゃうんでしょうね、きっと」

-俳優としてドラマにも出演されるようになりますが、ご自身の希望で?-

「いえ、結構前から話はあったんですよね。一緒に遊んでいる人のなかには、竹中直人さんとか原田芳雄さんもいて、『お前やれば?』って、ずっと言われていたんです。

大きな作品の話も個人的には言われていましたし、マネジャーが監督に会ったとかいう話は聞いていたんですけど、最終的に僕はお断りしたんです。

僕にとって(B21スペシャルの)3人というのがすごく大事だったので。デビューしてすぐだったし、3人というのを守るためには、個人的な仕事は断るほうがいいと思ったので」

-律義ですね-

「律義というか、今でもそういう思いがあるから仕事をもらえるんでしょうね。不義理は絶対にしないので、ビッタリ3人ですね。

週に1回は必ずコントをやっていましたし、ずっと3人。レギュラーもどんどんどんどん決まっていきましたね、本当に。

コントを作る暇がないくらい。今も売れている人たち以上に仕事をしていました。『いったいいつ寝るんだ?』っていう感じで、寝る時間もないほどでしたけど、それが当たり前でしたからね。

起きたらもうコントの稽古だったし、自分のプライベートの時間なんてまったくなかった。

後は自分の欲の部分で、六本木に毎晩飲みに行って飲み明かしたりだとかもしていましたけど、でも仕事にはそんなに遅れたことはなかったですね」

-ヒロミさんは、昔のイメージとはまったく違いますね-

「変わらなきゃね(笑)。前と同じだったらまずいでしょう? 時代も変わったし。ちょうど僕たちのときは狭間なんですよ。狭間で、テレビが楽しいこととテレビの基本ルールを覚えてきたとき。

それと含めて世のなかもそういう時代になりつつあるという狭間だったんですよね。だから、すごい迷いはありましたよね。

迷いはありながら、テレビのルールのなかにのっとってやるという楽しさを見つけたのはたしかにあります、僕たちは。だから生き残れたんでしょうね、きっと。

だからコントなんかでも、3人のシチュエーションのなかで僕がボケ、一言もしゃべらなくても笑いをとっていける状態をふたりが作ってくれていたりとか、そのおもしろさだったりとかいうのを自分の体で覚えてきたので」

-それが俳優の仕事を受けるようになったのは何かあったのですか-

「だんだん個々の仕事もやりはじめたんですよね。事務所も独立してヒロミさんの事務所に所属になって。B21ということの集大成は、ライブ。僕たちの原点はやっぱりライブなんですよ。

テレビではなくて。そのライブにいけることができたので、だからこそ個々の活動もということに。やっぱり10年、20年やってくると、沸々(ふつふつ)したものが出てくるので。

先輩からの言葉だったりとか、チャレンジしてみたいなっていうことをやらせてもらったっていうのはたしかにありますね」

それぞれ個々の活動もするようになり、デビットさんは俳優としても活動することに。次回は話題を集めたドラマ『聖者の行進』の撮影エピソード、ラーメン作りへの挑戦などを紹介。(津島令子)

©︎2021『かくも長き道のり』

※映画『かくも長き道のり』
2021年2月13日(土)より池袋シネマ・ロサほか全国順次公開
配給:ナインプレス
監督・脚本:屋良朝建
出演:北村優衣 デビット伊東 真瀬樹里 坂本充広 宗綱弟 沖ちづる
2017年伊参映画祭シナリオ大賞、審査員奨励賞受賞作を映画化。
孤独に生きてきた駆け出しの女優・遼子(北村優衣)は連続ドラマへの出演が決まり、4か月ぶりに故郷の田舎町に帰って来る。故郷には25歳年上の元賭博師の恋人・村木(デビット伊東)が。所属事務所からは別れろと迫られているが…。

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