秋野暢子、三國連太郎の金言で吹っ切れた。「国民的女優」から山口百恵をいじめる“憎まれ役”に

公開: 更新: テレ朝POST

1975年、連続テレビ小説『おはようさん』(NHK)のヒロインに抜てきされ、広くその名を知られることになった秋野暢子さん

「国民的女優」として注目を集めるなか、ドラマ『赤い運命』(TBS系)に出演し、山口百恵さんをいじめる役で意地悪な女に挑戦。幅広い役柄を演じ分け、数多くのテレビ、映画、舞台に出演。1986年、映画『片翼だけの天使』(舛田利雄監督)で第60回キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞を受賞。バラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとしても知られ、ダイエット本の出版も多数。11月に新刊『からだの中に風が吹く! 10カウントブレスヨガ』(幻冬舎)が発売されたばかりの秋野暢子さんにインタビュー。

◆内気で引っ込み思案の少女が演劇と出会い…

大阪ミナミの呉服屋さんの長女として誕生した秋野さん。もともとは裕福だったが、秋野さんが5歳のときに状況は激変したという。

「父が知人の保証人になったことで、その負債を負うことになってしまったんですけど、私が物心ついた時点でそうだったので、私は呉服屋のことは何も覚えていないんです。

ただ、債権者が来たりして家のなかがゴタゴタしていたので、わりかし人が怖いというか、今からは想像もできないような内気で引っ込み思案。ちょっと吃音(きつおん)がありましたし、小学校5年生ぐらいまでは人前に出るのが苦手でした」

-そんな内気な秋野さんに変化があったのは?-

「小学校の5、6年を担任してくださった先生が、なぜそう思われたのかはわからないんですけど、学芸会のときに、ちょっとおもしろい役というか、いい役を私に振ってくださったんです。

それを断るのもドキドキしてできなくて、結局その役をやることになったんですけど、何度も何度も稽古をして、最終的に学芸会でやったらおもしろい役だったので、私が何かをやるとドッと父兄の方とか先生、子どもたちにウケたりなんかして。

それで、先生が両親に『自己表現は下手だけれども、演劇が盛んな中学校とかに入れたらどうですか?』という話をしてくださったんです。

それで、大阪の四天王寺学園という中高一貫の学校に進んだのですが、お芝居をすることで吃音が出ることもなくなって。

中学校の後半、高1になるかならないかぐらいのときに、演劇部も高校野球みたいに、地区予選、ブロック予選、近畿予選、そして全国大会にというのが4年に1回あるんです。

それで段々勝ち抜いて行ったときに、テレビ局のプロデューサーの方、ディレクターの方、劇団主催者の方が審査員でいらしていて、『この仕事をアルバイトみたいにしてみないか』と言われたのがきっかけで、それが15歳くらいのときでした。

NHKのラジオドラマが最初だったんですけど、大阪で『部長刑事』という長寿番組があって、それに2、3回出させていただいたりして。

最初はアルバイトみたいな感じだったんですけど、いつの間にか本業になったという感じです」

※秋野暢子プロフィル
1957年1月18日生まれ。大阪府出身。1975年、連続テレビ小説『おはようさん』(NHK)のヒロインに抜てきされ、本格的に女優活動をスタート。『赤い運命』、『スチュワーデス物語』(TBS系)、映画『岸和田少年愚連隊』(井筒和幸監督)、映画『ハッシュ!』(橋口亮輔監督)、舞台『天璋院篤姫』など多数出演。歌手、ワイドショーのコメンテーターとしても活躍。ダイエットへの造詣も深く、『秋野暢子のキレイにやせて二度と太らない』をはじめ、ダイエット本も出版。2011年から日本全国の被災地に出向き、脳とからだのスマイル体操をはじめ、料理教室、ビューティーボランティア活動や災害支援活動も行い、「一般社団法人0から100」の代表理事も務めている。『からだの中に風が吹く! 10カウントブレスヨガ』(幻冬舎)が発売中。

19歳

◆新人女優の登竜門、朝ドラのヒロインに抜てき

1975年、秋野さんは18歳のとき、連続テレビ小説『おはようさん』(NHK)のヒロインに抜てきされる。

「高校を卒業してすぐに撮影に入ったので、NHKに就職したみたいな感じでした。毎日大阪のNHKに通っていました」

-『おはようさん』はオーディションを受けて決まったのですか-

「それが、オーディションというのがなくて、私は銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』(NHK)という寺尾聰さん主演のドラマに出させていただいたのがオーディションだったようです。

寺尾さんが新聞記者の役で、新聞記者たちが集まる喫茶店が会社の前にあるんですけど、笑福亭仁鶴さんがマスターで、私はそこのウエイトレスの役。

私と同じくらいの年ごろの人が、そのドラマだけでも3、4人出てらして、それ以外の大阪の番組にも若い女優の卵みたいな人が何人か出ていたんですけど、それが実はオーディションだったらしいんです。

実際に動かしてみて、使えるようだったら使ってみようみたいなことだったみたいで。

ですから、オーディションとして集まったわけではなくて、役をもらってやっているのがオーディションだったという感じです」

-ヒロインに決まったときはどうでした?-

「将来のことも考えなければいけない時期だったので、私は大学に行くかどうかもわからないけど、とりあえず就職もしなきゃいけないかなあというふうに思っていて。

でも、演劇をやれたらいいなと思っていたので、本当にそれはありがたかったです。それはぜひという感じでした。

朝ドラが、ちょうど東京半年、大阪半年になった最初の作品で、前半が『水色の時』で大竹しのぶちゃんがデビューして、後半が私だったんですけど、大阪のNHKだということでよかったなあって(笑)」

-朝ドラのヒロインはかなり大変だということですが、いかがでしたか-

「2016年に高畑(充希)さんが主演された『とと姉ちゃん』に出させていただきましたが、本当に大変そうでした(笑)。

だから、私は本当に素人に毛が生えたような状態だったと思うんですけど、大変なのもよくわからないみたいな感じで(笑)。

でも、本当に周りの方に優しくしていただいて、もち上げていただいて半年間が終わったという感じです。

お母さん役の正司歌江師匠は当時お店をやってらして、出演者やスタッフにお弁当を作ってきてくださったんです。そうするとやっぱり一体感が生まれるんですよね。『同じ釜の飯を食う』じゃないですけど(笑)。本当によくしていただきました。

だから今度は私の番だと思って、ドラマや舞台の現場にみんなのためのお弁当を作って行ったりしています。若い人たちがご飯を食べている姿を見ているとうれしくなります」

-大阪で『おはようさん』の撮影が終わって、すぐに東京に引っ越されたのですか-

「はい。『おはようさん』は10月から3月までの放送だったのですが、撮影は4月からはじまっていて、放送がはじまるころには全部撮り終わっていました。

それで、全部撮り終わってから私は東京に出て来て、それからオンエアがはじまったんです。

当時は朝ドラをやる人はまったくの新人ばかりだったので、放送期間中はほかの媒体に出られなかったんです。

今は有名な女優さんがヒロインをおやりになっているので、ほかのドラマや映画、コマーシャルなどにもお出になっていますけど、私たちの時代は出られなかったんですね。

だから、その半年間は、私は三船プロという三船敏郎さんの会社にいたんですけど、殺陣を習ったり、乗馬を習ったり…いろいろな訓練期間が半年ぐらい続いて、その間に私は19歳になり、次の仕事として『赤い運命』のお話が来たという感じです」

◆いじめ役の反響が大きすぎて石をぶつけられたことも

『おはようさん』で「国民的女優」として注目を集めた秋野さんだったが、次に出演したドラマ『赤い運命』では一転。山口百恵さんをいじめる役で意地悪な女に。

「あの当時は国民的いい子ちゃん女優みたいなイメージとはちょっと違う役をやって演技の幅を広げたいと思っていたので、『赤い運命』をお引き受けしました」

-山口百恵さんをいじめる結構きつい役でしたね-

「そうですね。百恵ちゃんをいじめて。本当にあの頃はファンレターというとカミソリが入っていましたし、大変でした。知らない子どもに石を投げられたりね(笑)」

-お母様も結構大変な目に遭われたとか-

「はい。商店街に買い物に行ったときに品物を売ってもらえなかったこともあったそうです。『あんな娘に育てて』って言われたりして。

あのドラマは40年ぐらい前なんですけど、テレビのなかの人物と役者を重ね合わせて見ていた時代というのでしょうか。一緒になっちゃったんでしょうね。母は何も言いませんでしたけど、ちょっと悲しい思いをさせてしまったかもしれません」

-すごい選択でしたね-

「国民的女優というイメージは…というのがなんとなくあったんでしょうね。何か、いい子ちゃんじゃない役をやってみたいとちょっと思ったのかな」

-実際にやってみていかがでした?-

「やっぱり放送がはじまっていろんな目に遭うわけですよね。石をぶつけられたり。それでさすがに何本目かに私がひるんだことがあったんです。悩んでしまって。

そうしたら三國連太郎さんに『芝居に迷いがある。ヒールはヒール役をちゃんとやらなきゃいけない。そのことが今は、暢子ちゃんは悲しいかもしれないけど、必ず演技の幅が広がっていくから一生懸命やりなさい』って言われて。

三國さんもヒールの役だったんですけど、そう言っていただいたことで、吹っ切れた部分があったと思います」

-今振り返ってあの役を演じたことはどんなふうに思ってらっしゃいますか-

「懐かしいです。同じような年代の方は、皆さん覚えていてくださっていて(笑)。結構笑い話になっているんですけど。いい経験になったと思います」

-『赤い運命』で思い出されることは?-

「いっぱいあります。あのときは、とりあえず、人前では百恵ちゃんと仲よくしちゃダメって言われていたんです。

百恵ちゃんの取材に記者さんたちが来ているときには仲よくするなって。普段はよく話したり、ご飯を一緒に食べたりしていたんです。

彼女が17歳で、年も近かったので仲がよかったんですけど、取材が来ると一緒にいちゃダメだって。ドラマと同じように、実際も仲が悪いようにって(笑)。

だから、そういうときはその場から離れたりしていました。本当は仲がいいのになあって思いながら」

-シリアスな内容でしたけど、現場は?-

「宇津井(健)さんと三國さんが中心になって、和気あいあいという感じでした。宇津井さんはもともと大映で色々やってらしていたので、中心になってとりまとめてくださって、そして撮影がはじまると緊張感をもってという感じで、とてもいい雰囲気でした」

-お仕事も順調で-

「そうですね。私はとてもラッキーだったと思います。ひょんなことから朝ドラに選んでいただいて、東京に出て来て三船プロという大きな会社に入れていただいて、いろんなお仕事をさせていただいて。三船プロ自体が製作していた時代劇だとかにも色々出させていただいていました」

-かなり色々なドラマに出てらっしゃいましたね-

「そうですね。若いときは本当に忙しかったです。ドラマは3本、4本同時にやっていましたし、1本のドラマにA班、B班、さらにC班を立てたりすることもありましたから。

とくに百恵ちゃんとやったドラマは、百恵ちゃんが夜まで歌番組とかほかのお仕事でスケジュールが取られていたりしていて、撮影がはじまるのが夜の12時ということもあったんです。

もちろん普通に朝からはじまることもありましたけど、彼女のスケジュールで動いていたので、すごく不規則でした。

それで私も時代劇をやっていたので、昼間はかつらを被って立ち回りをやって、夜は『赤い運命』の撮影という感じで。

終わってからもいろんなドラマとかけもちしていたので、完徹の日が週に3日ぐらいありました。若かったからできたんでしょうね。今はもうムリ。そんなことをしたら死んじゃいますよ(笑)」

クールなルックスにスレンダーなプロポーション、凛とした姿がカッコいい。次回は20歳で決意した東京での家購入、ダイエットの造詣を深めることになった理由などを紹介。(津島令子)

※『からだの中に風が吹く! 10カウントブレスヨガ』著者:秋野暢子
出版社:幻冬舎 DVD付き
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