マッハ文朱、菅原文太さんとキスして前歯が欠けた!「スパナで殴られても欠けたことがないのに」

公開: 更新: テレ朝POST

1976年、人気絶頂のなか、わずか2年8か月で女子プロレス界を引退したマッハ文朱さん。引退後、本格的に歌手、女優、タレントとして活動を開始。映画『トラック野郎・天下御免』(鈴木則文監督)、映画『宇宙怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)、『象印クイズヒントでピント』(テレビ朝日系)、『クイズ!!ひらめきパスワード』(TBS系)など多数出演。

レギュラー番組を複数抱える売れっ子タレントとして活躍するが、デビュー10周年目の1984年、25歳のときに芸能活動を休業し、ニューヨークで1年間留学生活を送ることに。

◆文太さんを投げ飛ばし、押し倒してキス?

現役時代からレコードを出し、映画にも出演していたマッハさんだが、プロレスラー引退後に芸能界でという考えはまったくなかったという。

「とにかくプロレスを辞めることしか考えてなかった。今でもそうなんですけど、あまり先のことは考えてないんです。

でも、なんとなくそのときどきの流れはできるんです。次にやることがきてくれるみたいな感じで。プロレスを辞めた後は、母を安心させたかったので、母と朝からどっぷり一緒にいて温泉に行ったりして過ごしていました。

そして、それからまた芸能界のお話をいただいて、そこではじめて考えていたら、姉が、『やってみるのもいいんじゃない?』って言ったので、やってみることに(笑)」

1976年、映画『トラック野郎・天下御免』に出演。菅原文太さん扮する「トラック野郎」シリーズの第4作。トラック野郎・一番星桃次郎(菅原文太)は、山陽・四国を舞台に借金に苦しむマドンナ(由美かおる)を救おうと大奮闘することに。マッハさんは四国で桃次郎と遭遇し、ひと悶着起こすコンクリートミキサー車「姫だるま」の運転手・須田雅美役を演じている。

-菅原文太さんとのキスシーンもありましたね-

「そうですね。鈴木則文監督は、映画デビュー作『華麗なる追跡』でも私を起用してくださって、『トラック野郎』と『ドカベン』でも使ってくださいました。

今思えば、『トラック野郎』は変な話ですよね。桃次郎にああだこうだと文句を言っていたら、『うるさいな、うるさい!』って、口封じのために、唇で唇をふさがれるって(笑)。

そうしろって言うから文句も言わずに、『はい!』って言われるままにやりましたけど(笑)」

-そのキスシーンが長いんですよね-

「そうなんです。それで映画のなかの菅原文太さんがすごく好きだったんですよ。だから、『えーっ?』って感じで…。

キスをするという感覚がなくてケンカの延長で唇をつけられるというのもおかしな話だなって思うんですけど」

-文太さんに強引にキスされた後、今度はマッハさんが文太さんに覆いかぶさって…という展開には驚きました。あのシーンの撮影はスムーズにいったのですか?-

『監督に『マッハ君、ここに来て、こうしたらああして、文太さんを投げ飛ばして、今度は君が覆いかぶさって唇をつける』って言われて、『はい、わかりました』って(笑)。

それで、海辺で文太さんを投げ飛ばした後、押し倒して、上から被さって唇をつけたんですけど、されるのもそんなに慣れてないのに、ましてや私から男性にっていうのも慣れてないですからね。

だから、それこそ殺陣師の方がいらして、アクションの型をつけてもらうがごとく、『いきます、掴まえる、倒してかぶさる』って動きを付けて、監督がメガホンで、『走る、掴まえる、倒す、行けー』みたいな感じで(笑)。

言われた通りに目をつぶって『ガーッ』てやったので、文太さんの歯と私の歯がぶつかって、私の前歯がちょっと欠けちゃって(笑)。今でも欠けたままなんです。

『痛い!』って思いながらやっていましたね。カットがかかるまでじっとしていて、『カット』って言われた瞬間、『あー、歯が欠けた』って(笑)。

それ以来、文太さんと六本木の路上とかでバッタリお会いしたときには、いつも必ず『お前、歯見せてみろ。まだ欠けてるな』って言われてました。

プロレス時代、スパナで殴られても欠けたことがないのに、文太さんとキスして欠けるなんて。文太さんの歯は丈夫でした(笑)」

◆デビュー10周年で芸能活動を中断、NYに留学することに

1979年には『象印クイズヒントでピント』をはじめ、レギュラー番組7本を持ち、1980年に映画『宇宙怪獣ガメラ』で映画初主演をはたし、主題歌『愛は未来へ…』も担当した。

「映画は本数こそ少ないんですけど、『トラック野郎』も『ドカベン』もそうですけど、伊丹十三監督の『マルサの女』、『マルサの女2』にも出させていただきましたし、『宇宙怪獣ガメラ』では主演。

なので、それぞれ代表作に参加させていただきながら、テレビのレギュラーも、ずっとやらせていただいていました。それに加えてラジオも。

土居まさるさんが司会の『象印クイズヒントでピント』は最初にゲストで呼んでいただいたときに、今でもクイズの問題も全部覚えていますけれども、(女性軍の)68点のうち私は48点取ったんですよね。私一人で。

それまで放送された16本のうち女性軍が2勝14敗だったんです。そのときの1勝が私がゲストで出たときで、その後レギュラーになって、それがまた違う意味でのマッハ文朱を知っていただくきっかけになって、答をよく当てたんですよ。私はいつも正解率が高かったんです。

ヒントを言われると大体わかるんですよね。視聴率も上がっていったんですけど、そこでまた私が『すみません。辞めさせてください。アメリカに行きたい』って言って」

-タレントに転身されて、レギュラー番組もたくさんあるなか、芸能活動を中断するというのはかなり思い切った決断ですね-

「常日頃から私は、姉や妹、そして周りの人たちの意見を聞きながら、私はどういうことをやりたいのかな、できるのかなというのは、いつも考えていますよね。

それでこっちのほうに行ってみたいなというような小さな波、小波は自分なりに作ってはいくんですけれども、こう見えても意外と慎重派なんですよ、実は。

でも皆さんの意見も聞きながら、その小波が『グワーッ』と集まったときに大きな波になるんですよ、その瞬間はもう考えない。そこはもうサーフボードを出してサーっと進んじゃうみたいなところがありますね。

だから、マッハ文朱になって10周年、『10周年記念にどんなことをやりましょうか』ってなったときに、『本を出す?』もう出した、『映画に出る?』もう出ました、『レコードを出す?』もう出しました、『目新しいことではないからどうしよう?』って。

そのときにうちの母が、『海外に留学したいって言ってたじゃない。それをやったらいいんじゃない?ただし1年だけよ』って言ったんです」

-留学したいという思いはいつ頃から?-

「20歳過ぎくらいだったと思います。漠然とだったんですけど、1回行ってみたいなという思いはありました。

でも、芸能界というのは、ちょっと顔を出さなければ、すぐ『あの人は今』みたいに言われてしまうので、ある意味ではとても怖いことなんですよね、続けているということは。

1年間留学して日本に戻って来たときに芸能活動のポジションがないかもしれないとも思いましたが、私はあまりそういうことを考えなくて、やりたいという事の方が勝っちゃうんですよね。

レギュラー番組のプロデューサーさんたちにそのお話をさせていただいて、いろいろな準備をして、私が出演していたテレビ番組の後任者が決まったところで留学することにしました」

◆留学前の下見に訪れたNYで大ショック

番組の後任者も決まり、NYに出発できることになったマッハさんは、留学前に1週間下見に行くことに。

「NYに着いた最初の日から6日間は、『ここに来ちゃダメだ』って思ったんですよね、実は。

それはなぜかと言うと、NYという街は、歩いている人も建物も空気もすべてがビリビリビリビリというぐらいの緊張感を感じる場所なんです。

自分は何のためにここにいるのか、何に向かって進んでいるのかという明確な目標がない限り、来たら危険なところだと感じました。

でも、私はNYという街に依存していたんですよ。『NYに来さえすればステキになれる。NYが私をステキにしてくれる。NYが私を変えてくれる。NYが私に新しい世界を見せてくれる』って。

まったく何の計画もないのに、NYに来さえすればなんとかなると思っていたのが間違いだということがすごいわかって。『ダメだ。私はここに来るべきではない。私がここに来たら流されてしまう。私はニューヨークには来られない』って。

そんな悶々とした思いを抱えていた最後の夜、ミスタードーナツのパッケージイラストやファッション雑誌の表紙絵などで有名なNY在住のイラストレーターのペーター佐藤さんが、『僕が1番好きな場所に連れて行ってあげる』って言って、エンパイアステートビルの最上階の展望台で夜景を見せてくれたんです。

それがあまりに素晴らしくて。展望台の上から下を見ると、人間は小さいなあって。どんなに好きなことをやってみたって、私のことなど気にもとめないだろう。だったら、私はここで思いきり好きなことをやろう。私はニューヨークでやっていけるかも。この夜景を見に来るのを目標にしよう』って最後の瞬間に思って、ニューヨークに留学することにしました」

留学時代

留学時代

◆不安でいっぱいだったNY留学生活

留学したときの住まいは友人の方から借りる予定で、すでにそこに住んでいる修業中のピアニストの女性とルームシェアするつもりだった。しかし、連絡の行き違いで、その女性にはルームシェアのことが伝わっていなかったという。

「電話をして、『マッハ文朱です。そこに一緒にルームシェアをさせていただくのでよろしくお願いします』って言ったら、『えっ?』って言ったまましばらく無言で、それから『聞いてませんけど』って言って、すごい怒っているんですよ。

それが出発前日で、とりあえずレストランで待ち合わせしたんですけど、もうずっと飛行機のなかも不安でたまりませんでした。

それでレストランに行ったら彼女が来て鍵をポンと渡されて、『これ鍵。私はジャズを夜通し勉強で明日の朝まで帰ってこないから、合鍵を作っておいてください』って言って出て行っちゃって。

忘れもしない。すき焼き弁当食べて、抹茶アイスクリーム、涙の味しかしなくて(笑)。

彼女に悪いから、何とか住む部屋を見つけなくちゃいけないと思って。それで黒人ダンサーしか入れないのに、日本人のダンサーが2人入られているところがあったので、そこに電話していろいろ見せていただいたりしながら、住むところを探していることを話したら、アーティストしか入れない女子寮があるから聞いてみてあげるって言われて。

ただ、そこはアーティストしか入れないから、日本から来たダンサーだって言いなさいって(笑)。でもなかなか空いてないからって言ってたんですけど連絡したら空いていたんですよ」

-すごい運が強いですよね-

「そうですよね。それで1週間後に入れるということになって。でも、最初にものすごく不愛想だったピアニストの彼女ともその間にすごく仲よくなって、『一緒に住もうよ』って言ってくれたんですよ(笑)。

でも、日本人と一緒に暮らすと、どうしても日本語を使ってしまいますからね。引っ越しも手伝ってくれたんですけど、その彼女があの超有名なジャズピアニストの国府弘子ちゃんです(笑)。当時から『私は絶対ジャズで有名になる』って言っていて、今でも仲よしなんですけど。

それでそのアーティスト専用の女子寮のルームメイトは、17歳のベティーナという、『アメリカンバレエシアター』のプリマバレリーナで、そこでまた英語にもまれて、学生生活を送って毎日学校で英語を習って。

夜は名画座で古きよきアメリカ映画がやっていて、3日交代でプログラムが変わるんですよ。それで毎晩2本見て、12時くらいに帰ってきて、そこの入り口に警備員の方が必ずいらっしゃるから、どんな映画を見たのかそこで全部話してから寝るという生活を1年間していました。

最初は何を言われているのかわからなくて、『書いて』ってお願いしたりしていたんですけど、たとえば、『どうやってこの場所を見つけたんだ?』って聞かれたら、その女子寮には40人くらいしかいないんですけど全員にそれを言うんですよ。

そういうことをやっていくうちに、なんとなく言われていることがわかるようになりました。

だからニューヨークは私のなかで本当にまた違う一面をという感じでした。そこから少しずつ、知り合いの方たちが増えてきて。

日本人でレストランを経営されている方に『よく日本人のタレントさんが来るけど、普通はだいたいマネージャーさんが全部下準備をして来る。何一つ準備しないでひとりで来たのはマッハ君、きみだけだよ』って言われました(笑)。

でも、何から何まで用意してもらって来るだけだったらつまらないじゃないですか。今思えば本当に無防備だったのかもわからないですけど」

-よく全部お一人でやりましたね-

「そうですね。それを含めたところがやっぱり留学に行くということだと思うんです。

でも、国が違うと、一番気をつけなきゃいけないのは身の危険ですから。そこはやっぱり自分なりに気をつけました」

-危険な目には遭いませんでした?-

「2度ばかりそれらしき感じはあったんですけど大丈夫でした。『あっ、来るな』って思ったら、即、どこかに移動するとか。エレベーターから出るときも、ただ出てくるのではなく、1クッションずらして出るとか、やっぱりその辺は常に考えておかないといけないという感じですよね」

-1年間の留学生活で、帰国される日は最初から決めていたのですか?-

「そのときはレギュラーが3本待っているからということで。姉から電話があって。それに最初から1年間だけという期限付きだったんです」

1985年、NYから帰国したマッハさんは、芸能活動に復帰。バラエティ番組やドラマ、伊丹十三監督の映画『マルサの女』、『マルサの女2』など、テレビ、映画で多忙な日々が続くなか、「今度はアメリカの大学に行きたい」と思うようになったという。

次回後編では、結婚27年目を迎えたご主人との出会い、海外での子育てと結婚生活、2021年に公開される映画『ネズラ1964』の撮影裏話も紹介。(津島令子)

※映画『ネズラ1964』
配給:KADOKAWA
監督:横川寛人
出演:螢雪次朗 菊沢将憲 米山冬馬 佐野史郎 古谷敏 マッハ文朱
主題歌:マッハ文朱
1964年に公開される予定だったが、生きたネズミをミニチュアのなかに置いて巨大な怪獣に見せかけるという方法を取ったため、ノミやダニが大量発生し、近隣住民のクレームによって保健所から撮影禁止勧告を出されて製作中止となった「大群獣ネズラ」のスタッフの苦悩や挫折、そして「大怪獣ガメラ」製作へとつながる物語をフィクションを交えながら描く。

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