女優・片岡礼子、ジャッキー・チェンを機にのめり込み…その後、“映画界のミューズ”に!

公開: 更新: テレ朝POST

1993年、映画『二十才の微熱』(橋口亮輔監督)で女優デビューし、映画『愛の新世界』(高橋伴明監督)での体当たりの演技で話題を集めた片岡礼子さん。

映画『KAMIKAZE TAXI』(原田眞人監督)、映画『鬼火』(望月六郎監督)など話題作に多数出演し、2001年には映画『ハッシュ!』(橋口亮輔監督)に主演。唯一無二の存在感で“映画界のミューズ”として注目を集めるが、2002年、脳出血を発症。一時は生命の危険に晒されるも、約2年間の療養生活を経て、映画『帰郷』(萩生田宏治監督)で女優復帰をはたし、現在2本の映画『とんかつDJアゲ太郎』(二宮健監督)と『タイトル、拒絶』(山田佳奈監督)が公開中の片岡礼子さんにインタビュー。

後藤久美子さんと山本未來さんに嫉妬?

愛媛県で生まれ育った片岡さんは、小さい頃から物を作ることが好きで、おとなしい子どもだったという。

「映画が見られていたら幸せだし、本、漫画、何か作ることが好きでした。水泳は好きだったんですけど、球技がちょっと弱い。

バスケ、バレー、野球、サッカーが得意な人に憧れていましたね。兄弟は球技が得意な人だったので、妹ながらにカッコいいなあって思っていました」

-昔から映画が好きだったのですね-

「はい。親と一緒にテレビで映画を見るということはOKだったんです。家ではテレビを見る時間が1日1本までという約束がありまして、見放題じゃないぶん、きょうの1本は何にするか真剣に考えていました。

あの頃だったら、欽ちゃん(萩本欽一さん)とかドリフターズの番組。新聞を見てドリフの番組があるってなったら、早めに宿題を済ませ、お風呂に入ってパジャマに着替えてスタンバイしてました(笑)。

テレビは選んで見るものだったので、しばらくして映画っていう枠があることを知りました。

あの当時のカタカタってフイルムが回るようなオープニングのアニメーションが印象に残っています。

『日曜洋画劇場』とか、『金曜ロードショー』など映画を放送する番組がいくつかあったので、その日はなるべく映画に焦点を合わせてっていうときに、衝撃のジャッキー・チェンが出てくるんですよ(笑)。はじめてジャッキーを見たのは中学1年だったと思います」

-いちばん衝撃的だったことは?-

「いちばんは笑えること。あと、とてもテーマが身近なようで大きい。

師弟関係から、悪い言い方をすると復讐だったりするんですけどね。でも、ちゃらんぽらんだった自分が、師匠にいろいろ指導されても言うことを聞かなかったけど、師匠に何かあったら奮起する。

しかも彼はスタントを使わないっていうこと。当時はテレビで流れる吹き替えの声が本人の声だと思っていたんですよね。

それにやっぱり見ごたえで、あの年の自分には、もうジャッキーはすごいスペシャルな人で、『将来の夢はジャッキーのお嫁さん』って本気で言ってました(笑)。

あんなことを言ったのは、本当に後にも先にもジャッキーだけですけど(笑)。スーパー好きだったんでしょうね。

今もそういう意味では、ジャッキー・チェンが、ポスターとかに出ていると、『あっ!』って思いますよ。スーパーヒーローです」

-そうなると、共演したいという思いになると思いますが-

「夢のまた夢のまた夢です。まず日本人キャストがジャッキーと共演するチャンスはないだろうと思っていたら『シティーハンター』(1993年)で後藤久美子さんがジャッキーと共演したので仰天して…。

そういうスーパー夢みたいなことが起きていることのうれしさと、自分は女優としてその足元にも及んでいないというところが入り組んで、ショックで見られませんでした(笑)。本当に見られなかった。

『見て何の感想を言うんだ?自分は』って思って。簡単に言うと嫉妬でしょうね、太刀打ちできない。山本未來さんも『WHO AM I !?』(1998年/日本公開は1999年)でジャッキーと共演しましたし、いいなあって(笑)」

映画館にはじめて行ったのもジャッキーの映画『五福星』(1983年)で、しばらく記憶がないくらい感動したという。

「自分のなかではジャッキーが出ずっぱりだった印象だったのに、そうでもないんですよね。あまりに好きすぎて自分の頭のなかではそうなっていたんでしょうね(笑)」

-ジャッキーは自らアクションに挑むのでケガも多いですね-

「新聞に載ったぐらい大ケガをして、何か月も映画の撮影もストップしたことがあったんですよ。崖からすべり落ちて複雑骨折で撮影は止まって再起不能かみたいなことを言われて…。

本当に心配で、『よその国の中学生がこんなに新聞を見て呆然としている姿をジャッキーはわかっているのかなあ』って思うぐらいショックを受けて、テストにも身が入りませんでした」

※片岡礼子プロフィル
1971年12月20日生まれ。愛媛県出身。大学在学中の1992年、篠山紀信さん撮影で「週刊朝日」の表紙を飾る。1993年、映画『二十才の微熱』で女優デビュー。『愛の新世界』、『KAMIKAZE TAXI』で第17回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞受賞。『鬼火』で第19回ヨコハマ映画祭助演女優賞受賞。2001年、『ハッシュ!』で第45回ブルーリボン賞主演女優賞&キネマ旬報賞受賞。映画『楽園』(瀬々敬久監督)、映画『閉鎖病棟-それぞれの朝-』(平山秀幸監督)、映画『Red』(三島有紀子監督)、映画『愛がなんだ』(今泉力哉監督)、ドラマ『あなたの番です』(日本テレビ系)など映画、ドラマなどに多数出演。映画『とんかつDJアゲ太郎』と映画『タイトル、拒絶』が公開中。

◆映画の大ファンで映画館で働きたいと思ったが、女優にチャレンジすることに

ジャッキー・チェンがきっかけで、それまで以上に映画が好きになった片岡さんは、そこからたくさんの映画をのめり込むように見るようになったという。

「私が小学校から中学校の間は角川映画の全盛期で、薬師丸ひろ子さんと原田知世さんの映画を同時上映で見に行ったりして、自分がすごく大人になった気になったりしていました。

あと、フランス映画で好きな女優さんが何人かできて、その人の作品を見るようになったり、いろんな過程があったんですけど、『女優になりたい』みたいなところにはなかなかいきませんでした。

ただ、映画が好きで好きで、映画に何か関わりたいという思いがあって、自分のなかで想像できるのは、お客さんを劇場内に案内するとか、映画館で働くこと。

映画館で働いたら映画を見ることができて、誰かが舞台あいさつで来られたりしたらご案内したりするのかなって。本当に映画ファンとして、想像できたのはそのくらいでしたね」

-女優になろうと思ったのはいつ頃ですか?-

「いつ頃でしょうね?実は、中学生のときに『ミス南ちゃんコンテスト』というのがありまして、そういうことに挑戦することは自分らしくなかったんですけれども応募して。

その結果、人前に出たりしたんですけど、すごく緊張したし、どう振る舞っていいかわからないモヤモヤの14歳みたいな状態でいた記憶があります。

まあそのときには場内の審査員のみなさんに可愛がっていただいて、いい印象でコンテストを経験することができたんです。

しかも、東京ディズニーランドの家族旅行というおまけ付きだったので、いい思い出になっていまして、そういうこともあって、もしかしたら映画に違う形で関われたりするんだろうかみたいなことは、その頃からぽつりぽつりと考えたりしていましたね。

とは言え、演技の経験はないですし、『映画が好きで見ています』っていうだけの人なので、東京の大学に行くという決心をしたときは、まだ夢だけ抱えている状態でした」

片岡さんは明星大学理工学部土木工学科に進学。ご両親は女優になることには反対だったそうだが、大学の4年間でチャンスをつかめなければ、土木の勉強をいかして愛媛に帰って就職すると約束し、挑戦することにしたという。

-土木工学科は女子学生が少なかったのでは?-

「同期の女子は、私を含めて5人。お互い土木子(どぼこ)って言い合って、今でも会うんですよ」

-土木工学科を選んだ理由は何だったのですか?-

「水の勉強をしたいと思ったからです。子どもの頃、父親の故郷である愛媛県の新居浜に休みのたびに帰っていて、そこの川で朝から晩まで、石を投げたり、石を積んで水の流れを変えてみたり、兄弟や近所の子とずっと遊んでいてすごく楽しかったんです。

それで水の勉強をしたいと思って。私が学ばせてもらったのは、設計の面。ダムとか、人が住んでいるだけじゃないすべての建築物というのが、その当時の土木の世界だったので」

◆上京早々、政党のキャンペーン・キャラクターに

大学1年の5月、民社党の4代目のキャンペーン・キャラクターに。「オーディションにノーメイクで来たのは、あなただけだ」といまだにその話になるという。

「大学にいて一人焦っていて、『東京にこれたはいいけど、私は映画に何か関われるんだろうか?映画に関われるとしたら、雲の上の女優業なんていうのは、演技もしたことがないのに言うんじゃないよ』って思っていたから、女優という職業はあるけど置いといて、その次に何があるのか?

私は何もできないじゃないかって悶々としていて、演技学校に行くという考えはもつことができなかったんですよ、悲しいかな。自信がなさすぎて」

-キャンペーンガールはオーディションで?-

「はい。前回の人は女優さんになったという話も聞いていたし、自分は踊れる人でもないし歌える人でもないけど、まじめにやるぶんにはお勉強させてもらえるかなぁって思って応募しました。

あと、特典として、その後の仕事や司会業というのもあったんですけれども、賞金というのが付いていたんですね。

『もし決まったらどうしますか?』って聞かれたので、『いま叔母の家でお世話になっているので、一人暮らしをしたいです。賞金でお部屋を借りて、炊飯器とか買いたいです』って言ったんですよ(笑)」

-可愛いですね-

「いやあ、今の私が聞いても可愛いと思いますけど、本当に何も知らないんだな、この人はって(笑)。

それで、5月からキャンペーン活動がはじまるんですけど、標準語をしゃべることもできなかったので、特訓がはじまるわけですよ。訛らない特訓が(笑)。

愛媛弁というか、伊予弁丸出しで、自分は標準語のつもりで訛っている人という状態だったんです。

『ひどい訛り、あれは絶対に直らないよ』って言っていた審査員の方もいらっしゃったらしく、最初に発声練習から、訛りのない話し方を教わりました。

本当に育てていただいて、いろんな勉強をさせていただきました。全国を回って司会もさせていただいたので、衣装やメイクなど教わることがいっぱいあって。

何かそんなことをしているうちに『将来の夢は?』って聞かれたときに、『言えるわけないやん』って思いながらも『映画に関わりたいです』って、小さい声で言ってました(笑)」

通常1年のところを片岡さんは、約2年キャンペーンガールをつとめ、そのあと篠山紀信さんが撮影する「週刊朝日」の表紙のモデルに選ばれる。

「実は、その前にも一度応募しているんですよ。そのときには何にも引っかからなかったんです。

自信があるわけでもないですけど、応募するということで何か意識が変わるかなと思って。

しかも、それは女子大生だったらどなたでもというので応募してみたら、連絡とかないなぁと思っているうちに、(選ばれた人の)表紙が出はじめたという感じで(笑)。

そのときは、『一生懸命選んだつもりだけど、写真が悪かったんだろうなぁ』とかって思うことにして、大学生の間はチャレンジし続けようって思って次の年にまた応募したら受かったんです。

最終オーディションのとき、篠山さんがパッとあらわれて、撮ってくださったんですけど、『これで落ちてもいいわ』って思うくらいお会いしただけで感動しました。

モデルに決まって沖縄で篠山さんに撮影していただいたんですけど、撮影に行くというところから、もう舞い上がって、修学旅行やなんか、そういう旅行みたいでした。

やっぱりみなさん、ベテランさんの大人の人たちが、毎年女子大生の子を預かって撮影するということで、とても大事に撮影に行って来たという感じでした」

-表紙に掲載されたときはうれしかったでしょうね-

「それが、掲載されるはずだった日には出なかったんです。私には知り合いに大々的に言うと、それがなくなるっていうジンクスがあるんですよ。

でも、これはもう一生に一度のことだから、友だちとかに連絡したんですよ。それで発売日に本屋さんに行ってみたら、オリンピックで金メダルを取った岩崎恭子さんが表紙になっていて、『私のジンクスの方が勝ってしまった』って(笑)」

-急遽、差し替えになってしまったんですね-

「そうです。事前には聞いてなかったと思う。それで、女子大生の表紙は夏休み週間と決まっているので、そのあとのモデルも決まっていて掲載できないので、私の写真はパネルか何かでプレゼントしてあげると言われたんですけど、最終的には異例のもう1週ということで掲載されて。

そのとき合併号だったかな? 何かのおかげでちょっと長めに載っていたので、かえってよかったんですけど。『あー載ったー』って感じで、もうそのときには誰にも言いませんでした(笑)」

そして、片岡さんは表紙になった「週刊朝日」を宣材として持参し、芸能事務所に預かってもらうことになり、発声練習、日本舞踊、ダンスなどさまざまなレッスンを受けることになったという。

次回はデビュー作『ニ十歳の微熱』、『KAMIKAZE TAXI』、『ハッシュ!』の撮影裏話、29歳のときに経験した脳出血、そして復帰などを紹介。(津島令子)

※映画『タイトル、拒絶』
新宿シネマカリテ、シネクイント、アップリンク吉祥寺ほかにて公開中(他全国順次公開)
配給:アークエンタテインメント
監督・脚本:山田佳奈
出演:伊藤沙莉 恒松祐里 佐津川愛美 片岡礼子 でんでん
それぞれ事情を抱えながらもたくましく生きるセックスワーカーの女たちを描く。
デリヘル嬢になろうとしたものの自分には無理だと悟ったカノウ(伊藤沙莉)は、事務所でデリヘル嬢たちの世話係をすることになるが…。

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