土井善晴「仕事には命懸けのような瞬間があるもんです」日本料理の修業中に目にした光景

公開: 更新: テレ朝POST

おかずのクッキング』(テレビ朝日系)、『きょうの料理』(NHK Eテレ)などでおなじみの料理家・土井善晴さん。

大学卒業後、フランスで2年間修業し、フランス料理の変革期を体感して帰国。家庭料理研究の第一人者で「おふくろの味」を流行語にしたことでも知られる料理研究家である父の「土井勝料理学校」を手伝うことに。

◆漬物の盛り付けがきっかけで日本料理の修業に

「土井勝料理学校」では、フランスでの経験をいかし、フランス料理を教える講座などを担当していたという。

「父の学校を手伝ってはいましたし、全体のテキストもありましたけど、肝心の父の家庭料理というのは、その間もあまり学んでないですね。

それで、あるとき、自分は日本料理が何もわかっていないということに気づきました。

父に『漬物を盛りなさい』って言われたんですけど、漬物を盛りつけるとなっても、何を手立てに考えればいいのかというものが何一つなかったんです。

どの器を選ぶか、どう切るか、どのように器に入れるか…自分は日本料理は何もわからないことに気づきました。

翌日には、日本料理屋で修業しようと思って行動しました。それで、大阪の『味吉兆』で修業することになるのです。

『味吉兆』は、『吉兆』の創始者だった湯木(貞一)をして、味付け日本一と言われた中谷文雄が、『吉兆』の名前をもらった唯一のお店です。

それで、私はご主人と若ご主人とともに、一緒に仕事ができたということはものすごく大きなことでした。

フランスの最高峰と、日本料理の最高峰と、両方を見られたということは私にとって、とてもありがたいことでした」

-お父様が有名な料理家だということで、修業を渋られるようなことはありませんでしたか?-

「なぜですか?そんなことはありませんでした。修業のはじめは、とくに何もやらしてくれません。ただ立っているだけです。

それで自分ができそうなことを見つけては、お手伝いさせてもらうということです。

自分がやるべき仕事である掃除や片付けができて、その上で気に入られたら、声をかけてくれる。

『ちょっとやってみい』って言われるまで何一つ、『これせえ、あれせえ』なんて絶対にないですよ」

-先生も全部自発的に、やられていたわけですか-

「そうです。周りはみんな私より年下でしたけど、一つのポジションをこなしている人もいました。

私はいつもご主人を見てました。同僚とかは気にもならなかった。ご主人だけ見ていて、ご主人のすることは何でもすごいなって思っていました。

ご主人かて料理を50年以上やっているんですが、その人がより高みを目指して、料理を失敗するというか、そこに私は感動しましたね。すごいなあと思いますよ。

失敗せんとこう思ったら、なんぼでもできるわけですよ。同じようにやったらええんやから。

でも、もっとよくしたいといつも狙っていて、昨日よりも今日、今日よりも明日って、必ず進化するという挑戦ですよ。

それは、タブーも犯さないと、やってみなきゃわからないんです。

『ステンレスが気に入らない、鉄でやったほうがもっといい火が出るんじゃないか』とか、チャレンジし続ける。そういう何か少年のようなご主人やったから魅力的でした」

-カッコいいですね-

「そう。すごくカッコいいですよ。本当にすてきな人。盛り付けるにしても、真塗りのきれいな足のついた盆に8寸を盛り込んで、ここに笹を立てたいとなったら、キリで穴を開けて笹を立てる。

仕事には命懸けのような瞬間があるもんです。ええなあと思います。

だから、おもしろかったですよ。ご主人の高みを目指す気持ちについていくのはおもしろいと私は感じますけど、それが『ややこしいことする』というふうに思う人もありました」

◆好奇心旺盛で先輩にうるさがられ…

厨房(ちゅうぼう)ではご主人だけを見ていたという土井先生。休日にご主人が釣りに行ったりするときには、車の運転手をさせてもらっていたという。

「ご主人の友だちと一緒に行くんやけど、みんなはしょっちゅう行ってはるから上手でいっぱい釣れてるのに、滅多に行かれへんご主人だけ釣れないこともありました。だからご主人に、魚を買うて帰ろうかと思ったこともありました。

買いませんが、釣った魚は全部もって帰るんです。

それをもって帰って、水洗いをきれいにして全部食べるんですよね。何一つ無駄にしない。で、きちんと料理します。

それしてたら周りの者は、仕事と関係のないことをしているわけやから、気に入らないこともあったと思います。お店に帰る前に水洗いをしておこうとも考えました」

-色々工夫されて-

「なぜかを知りたい。知らないことがあれば何でも聞きました。あんまりご主人に聞いていたら、『お前の名前は、“これなんですか”にせえ』みたいなことを言われたりして(笑)。

だけども、ご主人はそれに応えてくれました。その時代は、料理は理屈じゃないっていうことですから、なかなか聞くことも難しい。

そやけども、後輩に『何ですか?』って自分が知らないことを、聞かれるのが怖かったです。

自分は理由をちゃんと知りたいと思いましたから、後輩も同じことを思うだろうと。

疑問に思ったことは、ずっと考えていました。そうしたら、1週間後に、なかには1年後に答えがハッとわかることがあるんです。それは今でも続いています。

『これするんですか?』って聞かれたときに、私にしたら『さあ?わからん』って言うのがたまらない。

イヤやから、理由をちゃんと教えないとだめやと思って。それで『何でや?』『これ何ですか?』『何でかな?』っていうことをずっと疑問に思って、それを解決するのが、ずっと今でも続いていますよね。永遠と聞き続けているという感じ」

◆小さい頃から父の収録スタジオを見学

父・土井勝さんは、NHKの1950年の試験放送のときからテレビ放送に出演し、『きょうの料理』(NHK)や『土井勝の紀文おかずのクッキング』(テレビ朝日系)などに出演。土井先生は小学生の頃から、よくスタジオ見学に連れて行ってもらっていたという。

「父に私が、しょっちゅう『今度いつ帰って来るの?』って聞いていたせいかもしれませんけど、仕事場にはよく連れて行ってくれました。

スタジオの隅っこに椅子を置いてくれて、それに腰かけて見ていたのを記憶しています」

-お父様が『きょうの料理』をはじめたときには、まだカラー放送ではなかったそうですね-

「そうでしょうね。白黒のときは大変だったみたいです。白色だと汚れたように映ってしまうから、大根や白衣も青く染めていたみたいな話を聞きました。

それに、今はカメラが俯瞰(ふかん=高い位置から見おろす)で撮れるからいいけども、演台、作業台も斜めにしておかないといけなくて、斜めにして撮っていたから、大根なんかコロコロ転がっていくみたいな時代やったそうですからね(笑)」

-カメラも今みたいに自由自在に動かなかったでしょうしね-

「そうそう。それと、みんな生放送やったと思います。VTRじゃなく、生が基本やったんじゃないかな。

-先生がお父様について番組を見に行きはじめたときにはもうカラーになっていました?-

「カラーだったと思いますよ。カラーテレビが家にきたのは、私が小学校5年生か6年生の頃だったと思う。

父について行っていたのは、小学校3年生か4年生くらいからだったんで、最初は白黒の頃だったかもしれない」

-スタジオではおとなしく見ていたのですか?-

「そう。今よりずっと緊張感をもってみんながやる時代ですから、見ているほうも緊張しましたよね。

その当時、家で『きょうの料理』の音楽がかかったら、だらしなくしていたらあかんみたいな感じで、佇まいを正して見るような感じはありました。家なんかではね」

-自分が将来、やることになるとは思いませんでした?-

「そんなことはなかったね。そのときにはそんなんなかったけど、大根1本もって、なんにも家で予習とか勉強もしてないのに、急に大根1本だけでしゃべりだす父はすごいと思いましたよね。

それが今、自分もやっているわけやけどね。『いくらでもしゃべれるな』とたしかに思いますけど(笑)」

-先生の解説というか、お料理のお話は楽しいですよね-

「こんなことをしゃべろうなんて考えてないんやけどね。『おかずのクッキング』では、たとえば大根だと、アシスタントの堂真理子さんが、『大根は〇〇ですよね』とかって言ったら、それに反応してしゃべり出す。

そのほうが自分の言葉が生き生きするので、私の場合は好んでそういうふうにやっていますね」

※『おかずのクッキング』(テレビ朝日系)
毎週土曜日あさ4:55(一部地域を除く)
出演:土井善晴 堂真理子
旬の食材を使った作りやすい家庭料理を紹介。テキスト「おかずのクッキング」には、番組で紹介したレシピのポイントを詳しく掲載。

◆父から引き継いた料理番組は27年目に突入

1988年、土井さんは31歳のときに『おかずのクッキング』に初出演する。このときは、月に1週間の出演だったが、1993年、36歳のときに、体調を崩したお父様の代わりに番組を引き継いで出演することに。2020年で27年目となるが、最初は苦労したという。

「父から受け継いだ当初は、スタッフが父と一緒にやっていたスタッフだし、自分の空気にはならないから、父のやっていた形を踏襲する感じでした。自分が表現できるようになるまでには、ずいぶん時間がかかりましたね」

-『おかずのクッキング』は2か月に1冊テキストが出ますが、かなり前からメニューを考えて撮影もされているのでしょうね-

「そうですね。今も2月3月号の試作をやっているという感じです」(10月下旬取材)

-その季節にしかない素材を使うときには、1年前に撮影することもあるそうですね-

「冬の野菜とか、そんなこともしないとできないものもありますね。たとえば、いちじくのレシピとか、冬の大蕪(おおかぶら)のレシピとか、丸大根のレシピ、クワイのレシピ、金時人参のレシピとかね。

1年前にやったら素材があるわけですからね。おいしいネギとかね。そりゃあもう全然違いますから」

-1年後のこの季節にこの料理をということも考えてメニューを決めているのですか?-

「いや、そんな計算してません。やろうというその枠のなかに隙間があるから、そこに入れようというだけの話ですからね。

それよりも、やっぱり2021年の2月3月号のときに何を作るかという、作れるものを作るんじゃなくて、何を作るかということですね。

自分だけの問題じゃなくて社会の問題とかね。私だけが作れてもしゃあないから、みんながどんな気持ちでいてるんかなということから入る。みんなが想像もできないものは作らないしね。

みんなが想像できる範囲で、立ち位置が違ってやってみようとかね。『作ってみよう』、『食べてみたい』というモチベーションがあるのかどうかわからないけど、すぐ手の届くところに、『あっ、そんなんができるのか。そんなんやったらやってみようかな』という感じですよね。

それを読むということですね。それを想像するという感じが好きです、私は。それを考えるのは、すごくおもしろい。そこを考えるのは好きですね」

-発想がものすごく自由で、お料理ができない人でも割と簡単に入っていけるような感じがいいですね-

「そうそう。できるということでないと、それが条件でしょう? 一時はね、やっぱり私なんかでも、自分の腕を見せたいとか、人がやったこともないものをやりたいとか、カッコよく見せたいというふうに思ったときもあったんですよ。

でも、自分のことを思っていたらそんなの絶対に無理ですわ。『じゃあ、何のことを思うねん?』いうことやけどね。やっぱり作る人だけじゃなく、家族とかね、その人の人生とかを思ってということですね」

昔はできないことをしようと思って失敗したこともあったそうだが、今は新しい料理、レシピを作るのも、たいてい自分が予想したイメージ通りになるという。次回後編では、『一汁一菜でよいという提案』、コロナ禍での日々などを紹介。(津島令子)

※『一汁一菜でよいという提案』著者:土井善晴
発行所:グラフィック社
編集協力:おいしいもの研究所
暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ること。その柱となるのが、一汁一菜という食事のスタイル。

※『土井善晴の素材のレシピ』
発行所:テレビ朝日
「おかずのクッキング」の人気連載「素材のレシピ」約10年分が本に!野菜、肉、魚、加工品など75素材・300レシピを一挙収録。定番からひねりの利いたアイデア料理まで、素材を生かしたシンプルレシピ集。

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