土井善晴「何もできないじゃないかと」“あかんたれ”を直したくて海外へ留学

公開: 更新: テレ朝POST

ロマンスグレーのダンディーなルックスと独特の軽妙で柔らかい関西イントネーションの語り口で人気の料理研究家・土井善晴さん。

家庭料理研究の第一人者で「おふくろの味」を流行語にしたことでも知られる料理研究家・土井勝さんの次男として生まれ、スイス、フランスでフランス料理を学び、帰国後、「味吉兆」(大阪)で日本料理を修業。『おかずのクッキング』(テレビ朝日系)、『きょうの料理』(NHK Eテレ)など料理番組に多数出演。『土井善晴のレシピ100』、『一汁一菜でよいという提案』、『土井善晴の素材のレシピ』など著書も多い土井善晴さんにインタビュー。

◆幼い頃は外面のいい内弁慶の“ごんた”だった

家庭料理の第一人者である料理研究家・土井勝さんと同じく料理家の信子さんの次男として生まれた土井善晴さん。小さい頃は家で学校の予習・復習などまったくせずに外で遊んでばかりだったという。

「小さいときは“ごんた”でしたね。やんちゃとも言いますけど、ごんたのほうがふさわしい。やんちゃ言うたら、何か悪いことをするという感じやけど、ごんたは聞きわけがないとか、言うことを聞かない。

ニュアンスとしてはそういうことなんかな。ごんたというのは一人の問題やけど、やんちゃというのはほかの人に攻撃的やから、それじゃないよね」

-ご両親にはよく怒られたりしてました?-

「よう怒られていたというよりも、人が『こうしなさい』言うたら素直にするのをあまり好まなかった。だから、『こうしなさい』って言われても、したくない。

『幼稚園に行きなさい』って言われても『行きたくない』という。普通は『行きたくない』言うても連れて行かれるんやけどね。

そこがごんたやから、本当に暴れるというか、何かにしがみついて離れない、電信柱にしがみついて大声で泣いてました(笑)。

昔やったらおばあちゃんが、『行かしてやるなって』って言って、昔は行かなかった人も多いと思いますが、私は何とか行ったんでしょうね。その後のことは覚えていません。

結構小さい頃のことは覚えているんですけど、入園試験とか…ね。

ちりとりを見せられて、『これは何をするもんですか?』とか、『蝶々結びはできますか?』とか、『電車のなかで足を踏まれたらどうしますか?』って、三つぐらい質問されたのを覚えています」

-なんてお答えになったのですか-

「ちりとりはわかっていたけど、蝶々結びはできなかった。それで、『足を踏まれたら踏み返す』って言ったと思います」

-踏み返してはいけないと注意されたりしたのですか?-

「いや、この子は踏まれたら踏み返す、こういう子やねんなあということじゃないですか。注意されたりはしませんでしたね」

-小さい頃から意思がはっきりしていたのですね。外ではとてもいい子だったとか-

「そうです。それを内弁慶言うんですよ。内弁慶。外ではものすごく外面(そとづら)がいい。

家ではごんたやけど、外に行ったらみんなから評判がいいんです。すごくいい子だって(笑)。みんなで悪いことをしてても、私だけかばわれるというタイプ」

-得ですね-

「要領がええというか、兄がいるから、下の方は兄を見て、何をしたら怒られるか学んでいるんでしょうね(笑)」

-お食事はお母様が作っていたのですか?-

「お弁当は全部母だったし、父の料理学校を手伝っていたので、遅くなるときは料理の上手な年配のお手伝いさんがいて、用意してくれることも多かったと思います。年の近い親戚も、周りにいろんな人がいました。食事はどないしてたんでしょうね。

まあ、わりと近しいお姉さんやらお兄ちゃんやらが私の家に来て、入れ代わり立ち代わり一緒に暮らすみたいな感じでした。

おばあちゃんの弟が相撲取りで『ひらのがわ』という四股名でしたけど、その人も一緒に住んでいて、市場によく連れて行ってくれました。

市場に買い出しに行っては生きた“とびあら”という海老を買って、庭で七輪で焼いて食べました。それはとてもおいしかった」

-小さい頃、お母様に言われたことで一番記憶に残っていることは?-

「家では魚を食べるとき、母が身をむしってくれてたんです。幼稚園の頃でしょうか、兄が身をむしってもらっていて、それで待ちきれなくて、自分で骨を取って食べていたら、母が『善晴は魚を食べるのが上手やね』って言ったんです。

それがうれしくてね。それで、魚をきれいに食べることはいいことだと自覚しましたね。

それから、意識して魚をきれいに食べるようになったと思います」

-お父様は家でお料理を作ることは?-

「父は忙しかったので、家庭料理と言いながら、家ではあまり作らなかったですね。

親戚が集まったりするときには手打ちうどんをしたり、お餅をついたり、すき焼きの味をつけたり、あとお好み焼きくらいかな。

いいところは父がもっていくんですね 。すべて母がお膳立てしていたことです(笑)」

※土井善晴プロフィル
1957年2月8日生まれ。大阪府出身。スイス、フランスでフランス料理を学び、帰国後、「味吉兆」(大阪)で日本料理を修業。土井勝料理学校講師を経て、1992年「おいしいもの研究所」を設立。変化する食文化と周辺を考察し、いのちを作る仕事である家庭料理の本質と、持続可能な日本らしい食をメディアを通して提案。1988年から『おかずのクッキング』(テレビ朝日系)にレギュラー講師として出演。『きょうの料理』(NHK Eテレ)など料理番組に多数出演。『一汁一菜でよいという提案』、『土井善晴の素材のレシピ』など著書も多数。

◆学校では“父親お手製の弁当”と噂され羨望の的に

NHKの開局当時から父・土井勝さんがテレビに出ていて有名だったため、学校では遠足のお弁当をのぞきに来る先生もいたという。

「母が作ってくれていたんですけど、特別凝ったものじゃないんですよ。

鶏の照り焼き、卵焼き、肉団子、竹輪の炒り煮、こんにゃくの味噌炒め、定番のおかずですけど、おいしかった今もそういうのは大好きです。

高校ぐらいになってきたら、友だちが私の弁当食べたくて仕方がないみたいなときもありましたね。何か食べてみたら美味しいいうのがあったと思いますわ。

高校には食堂があって、ご飯におかずの定食が90円。そして天ぷらそばが50円ですわ。私は給食代をもらって、お弁当も作ってもらうという感じでしたね(笑)」

-育ち盛りですから、お弁当だけじゃ足りないという感じだったのですか?-

「それもあったし、私のお弁当食べたい子がおったり、少しあげたら代わりに何か買ってきてくれたりね」

-お母様はご存知だったのでしょうかね-

「それはわかってるでしょう。親はなんでもわかっていますよ。『お弁当あるんやから給食代いらんやろ?』ってことになるでしょう?(笑)でも、家はそんな感じでしたね。

おばあちゃんに口ごたえをしたときは父に怒られたけれども、それ以外に、『勉強せえ』とか、『○○しなさい』とかいうのは一切無かったですね。

ほったらかしですよ。『こうしなさい』とか、『勉強せえ』とか言われたことがないから、家に帰って『勉強せえ』とか言うてくれたら、もうちょっと賢かったのにって(笑)。家で勉強するいうことを知らなかったんですね。

宿題はしなさいって言われるからね。でも、家で予習復習とか勉強せなあかんということは、ぜんぜん知らなかったんですよ。

だから、家に帰ったら、もう遊ぶいうことしか知らなかったね。それで『みんなが塾に行っているから僕も行きたい』という感じで、そろばん学校とかにちょっと行ったこともありますけどね。

それ以外はもう学校から帰ってきたら日が暮れるまで遊んで。夏なんて7時ぐらいまで明るいじゃないですか。

思いっきり遊んで家に帰ると、お風呂に入って、『今日は1日よう遊んだなあ』ってほんと満足して、ご飯を食べてました。

とにかく近所に友だちがいっぱいいましたから、その子らとずっと遊んでましたね。そうやって外で遊ぶことが、人間関係や身体的な学びになっていたと思います」

◆料理家になる決意を固め、留学することに

小学生の頃から父・土井勝さんが出演する料理番組の収録に付いて行くことが多かったという土井さんは、物心ついた頃から料理は自分が将来やるものと思っていたと話す。

「子どもの頃から何となく思っていたけど、本格的に料理の道に進もうと思ったのは、高校生になってからですね。

その当時はまだ、たたき上げで修業するという形が多かったから、みんなもう先に走り出している。自分はまだスタートを切っていないのですから。

だから、高校生になったらはやく自分も走り出さないといけない、一刻も早く料理の道へ進みたいと思って、大学へは行かないつもりだったんです。

でも、時代も色々と変わるところやから、『今の時代、大学には行ったほうがええんちゃうか』とかいろいろと言われて、とりあえず大学に入ったんです。

言われるまま、大学に行くわけですけども、やっぱり心のなかでは早いとこ料理の道に行きたいというふうに焦っていました。

それで20歳のときに1年間休学して、スイスのローザンヌに行きました。

語学学校に籍を置きながら、有名なローザンヌのホテル学校に入学したいと思ったんですけど、世界中から入学希望者が集まるから入学するまでに6、7年待たなあかんと言われて。

私にしたら、そんなのやってられないと思うから、語学学校に通いながら午後からは、五つ星のローザンヌ・パラス・ホテルの厨房(ちゅうぼう)に入れてもらいました。

ローザンヌに行って1、2か月で、もうその仕事をはじめるわけです。それがはじめての厨房です」

-言葉は大丈夫でした?-

「言葉は大丈夫も何も、そんなにようけいりませんからね。何も議論するわけではないから、自分が必要な言葉さえしゃべれたらいいと。

そして、そうやっているうちに調理場での言葉ぐらいはできるようになってくるわけですよ。

ややこしい話とかはまた別ですけどね」

-留学することにした理由は?-

「自分が行かなあかんと思ってましたからね。自分で自分のことをするということが何にもなかったんですよ。私は恵まれてましたからね(笑)。

父の周りにいっぱいいろんな人がいてますからね。当時はそういう人たちと旅行に行ったり、海外へということもあって、そういう人たちの話を聞く機会もあったから、自分は弱いって知っていました。

何もできないじゃないかと。苦労している人らは、いろんなものに耐える対応力があるけれども、私にはない。あかんたれやなあって。自分でその“あかんたれ”を直すという意識がすごくありました。(※あかんたれ=根性なし、ダメな人)

“あかんたれ”を直すためにフランスに行こうって。フランス語だけは少しレバノン系のフランス人の先生に習ってたんですよ。そんなに真剣にやってなかったですけど、家で勉強しないんだとか言いながら、習ってた(笑)」

ローザンヌで1年間過ごして帰国した土井先生は、神戸のビストロ・ド・リヨンってレストランで働きながら大学に通い続け、卒業後、フランスへ修業に行くことに。

「神戸のレストランのシェフがお世話になっていたマルク・アリックスというリヨンにいてるポール・ボキューズの兄弟子の方が、居候させてくださって、その人を通じて、ボキューズのレストランで働かせてもらったり、数軒回らせてもらいました」

-もともとフランス料理をやろうと思っていたのですか-

「いや、そのときはね、今みたいにフレンチとかイタリアンとかチャイニーズとか、自分で料理をするとしたら選択するようなことはなかったです。

何をするかというのがあったけど、私の場合はそういう意識は全然なくて、料理という大きなもの、大きな海に船を漕ぎ出すみたいなことで、別にこれということはなかったんですね。

ずっと私の周りの大人は、『料理は一生の勉強や』とかね、そんなことをずっとみんなが言う人が多かったし、そういうものだというふうに思っていました。

何か一つということではなくて、何でもかんでも…、別にこれやと焦点を絞っていたわけじゃないんですね。

いずれにしても当時はフランス料理なんかが本物と言われるようなものがちょっとできてくるんですね。

スイスに行っていたときのレストランというのは本当にクラシックだったんです。ソースなんかでもいっぺんに寸胴(ずんどう)鍋でたくさん何種類か作るみたいな時代でしたけど、パリに行ったら、一皿ずつ小鍋でソースを作る。仕上げ方が全然違って、スタイルが変わるんですね。

ポール・ボキューズがヌーベル・キュイジーヌの旗手としてメディアに取り上げられはじめた頃で、フランス料理が一番大きく音を立てるように変わった時代にフランスにいてるというのは、私にとって大きかったと思います。

ミシュランの星を取るために命がけで料理を作るシェフたちの世界を間近に見たことで大いに影響を受けたし、世界トップの料理人が身近にいるのが日常だったので、私も完璧な料理が作りたい、一流の料理人を目指したいという気持ちになりましたね」

フランスで2年間修業した土井先生は帰国し、お父様の「土井勝料理学校」を手伝うことに。次回は日本での修業の日々、お父様から引き継ぎ、30年以上出演し続けている料理番組『おかずのクッキング』の裏話などを紹介。(津島令子)

※番組情報:『おかずのクッキング
毎週 土曜日 あさ4:55、テレビ朝日系(※一部地域を除く)
出演:土井善晴 堂真理子
旬の食材を使った作りやすい家庭料理を紹介。テキスト『おかずのクッキング』には、番組で紹介したレシピのポイントを詳しく掲載。

※『一汁一菜でよいという提案』著者:土井善晴
発行所:グラフィック社
編集協力:おいしいもの研究所
暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ること。その柱となるのが、一汁一菜という食事のスタイル。

※『土井善晴の素材のレシピ』
発行所:テレビ朝日
『おかずのクッキング』の人気連載『素材のレシピ』約10年分が本に!野菜、肉、魚、加工品など75素材・300レシピを一挙収録。定番からひねりの利いたアイデア料理まで、素材を生かしたシンプルレシピ集。

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