斉藤とも子「もう一度生き直したい」と離婚。震災直後に訪れたタイで、人生観が激変

公開: 更新: テレ朝POST

1987年、清純派女優として人気を集めていた斉藤とも子さんは、喜劇俳優の芦屋小雁さんと結婚。28歳という年齢差もあり、世間を驚かせた。

神戸で暮らしはじめ、1987年に長女、92年には長男が誕生。幸せな結婚生活を送っていた斉藤さんだったが、1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生。幸いなことにケガはなかったというが、その直後、斉藤さんはテレビ番組のロケでタイに出発することに…。

◆真っ暗闇のなか、這うようにして子どもたちのもとへ…

数々のドラマや映画に出演し、順風満帆な日々を歩んでいるように見えた斉藤さんだったが、実は自信をなくし、女優をやめることも考えていたという。

-ご結婚されてからお仕事はどのように?-

「家庭に専念していたので、ほとんど何もしていませんでした。ただ、長女の幼稚園の先生が、子どものことだけでなく、私たち家族の将来の心配までしてくださったんです。

『冷静に考えて、将来は、あなたが家族を支えるのよ。だから、仕事に復帰しなさい。子どもたちのことは私たちもみてあげるから』って。

それで、少しずつ関西の生放送番組のMCなどをはじめるようになりました。

それから数年後に、阪神淡路大震災が起きたんです。あのとき、早朝だったので私は寝ていて、最初は飛行機が近くに落ちたのかと思いました。ドーンという突き上げるような衝撃だったので。でも、そこからうわ~っと横に揺れ出して…」

-お子さんたちはいくつだったのですか?-

「3歳と7歳で、2段ベッドで寝ていました。揺れが激しくて、私は布団から起き上がれなくて、這いながら起こしに行ったんですけど、ベットが1メートルくらい床の上を横に動いていましたね。それなのに、子どもたちは寝ていて(笑)。

たまたま主人は京都に行って留守だったので、子どもたちを連れて、お向かいのお宅に逃げ込んだんです。そこのご夫婦が、いつも子どもたちを呼んで可愛がってくださっていたので。

高台にある鉄筋のおうちで、大きな一枚ガラスの窓から海のほうまで見渡せて、その窓から神戸の街が赤くなっていくのを見ました。

朝焼けと一緒に火の手が上がっていく情景は、鮮明に覚えています。生まれ育った神戸の変わりようにショックを受けました」

この地震によって神戸では、電気、ガス、水道などのライフラインが途絶え、必要な物資も手に入らなくなり、多くの人が不安でいっぱいの生活を強いられることになる。そんな折、斉藤さんはドキュメンタリー番組の仕事で、タイのスラム街で生活する人々や山岳民族を訪ねることに。

◆タイの人々との出会いで人生観が激変

阪神淡路大震災から10日あまり経った1月下旬、番組の取材でタイを訪れた斉藤さんは、人生観が激変したという。

「阪神淡路大震災で神戸では、家が崩壊したり、ガス、電気、水道が止まってパニックに陥っていたなかで、みんな支援を待つしかなかったんです。

それが悪いとかではなくて、ガス、電気、水道があるのが当たり前という生活しかしてないし、私もそうだった。

でも、タイの山岳民族の人たちは、貧しいと思っていたのに、むしろ逞(たくま)しかった。

自分の手足で畑を耕して作物を作り、家畜を飼い、火をおこし、電気がなくてもお日様の明かりだけで生活している。

そういう人たちを目の当たりにしたときに、人が生きる原点はこういうことなんだと思って。『私は何をやってきたのだろう?』と、何もできない自分が恥ずかしくなりました。

夜、村のふもとの寮では、自家発電の灯りの下で一生懸命勉強している子どもたちがいました。

将来は自分の村に帰ってお医者さんになるとか、学校の先生になると目を輝かせて夢を語る姿を見たときに、『何のために勉強するのか。それは、世のなかに役立てるためなんだ』ということを、その子たちに教えられたんです。

それで、『もう一回勉強したい』って、そのときにはじめて思ったんですよね。帰国して、『もう一度生き直したい』という思いも湧いてきて、主人と、それまでのお互いの関係も含めて話し合った末、結果的に、離婚することになり、私は子どもたちを連れて上京しました」

高校を中退している斉藤さんが大学に入学するためには、まず受験資格を取らなければならず、大検(大学入学資格検定)を受けることにしたという。

「大検は高校で取っていた単位は免除されて、足りない単位だけ取ればよかったので、わりと優しかったんです。

大学受験は大変だったのですが、母が亡くなったときに助けてくれた人たちのことが浮かんで、高齢者福祉、とくにおじいちゃん、おばあちゃんが好きだったから、恩返しができることを勉強したいと思って、三浪して社会福祉のある大学に4年目に受かりました」

◆大学に合格直後、もうひとつの大きな転機が

1999年、38歳のときに東洋大学社会学部社会福祉学科に入学した斉藤さんに、もうひとつの大きな転機が訪れる。

「やっと大学に合格したので、学業を優先するつもりだったんですけど、井上ひさし先生の戯曲『父と暮せば』で、広島の原爆で被爆した娘役のお話をいただいて。

以前、この舞台を見て強く印象に残っていたこともあり、これだけはやらせていただきたいと思ったんです。

でも、原爆について何も知らない自分に演じられるのかという不安もあって、せめて広島の空気を感じてみようと、ひとりで広島に行きました。そこで被爆者の方と思わぬ出会いがあったんです。

被爆者の人たちが、忘れることのできないつらい思いを抱えながらも、懸命に前を向いて生きている姿に触れて、私は自分に自信がないとか、生きていく価値がないとウジウジしていたことが恥ずかしくなりました。

そのあとも広島に通い続けて、私は、被爆者の方たちから『人間が生きるとはどういうことなのか』を教わった気がします」

斉藤さんは、2003年に東洋大学を卒業後、東洋大学大学院に進学。2005年に同大学院社会学研究科福祉社会システム専攻を修了。胎内被爆による小頭症患者とその家族の会(きのこ会)の歩みを修士論文にした「きのこ雲の下から、明日へ」を上梓(じょうし)する。

-斉藤さんの著書を読ませていただきましたが、被爆者の皆さんが明るくて強いですね-

「本当に強くて明るいんですよ。それに、ユーモアもあって優しい。強さは脆(もろ)さと背中あわせであることも教えられました。

心底つらい目にあった人は、そこだけに向き合っては生きていけないんだと思うんです。原爆なんて、あまりにも理不尽で、残酷ですから。

やっぱり人って笑わないと生きていけない気がするんです。苦難も、ときには笑い飛ばすくらいの感じで生きないとエネルギーが湧いてこないんじゃないかって」

-それが悲しみを乗り越える自己防衛本能みたいなものなのかもしれないですね-

「そう思うんです。泣かないというのは一つの自己防衛ではないかと。

もちろん、泣けるときは思いっきり泣いたほうがいいと思うんです。でも、悲しみだけを見つめないで、少しでも光の見える方に、何か新しいこととか、楽しいこととか、1歩踏み出せそうなことに意識を持って行く。

その代わり、他人の悲しみには目を背けられないんですよね。痛みを知っているからこそ、『つらいだろうなあ』ってわかるから。そこでまた、出会いが生まれるんですね」

-『父と暮せば』の井上ひさしさんとの出会いも「マイブックコーナー」(NHK教育テレビ『若い広場』内のコーナー)ですね?-

「はい、そうなんです。17歳のとき、収録は井上先生のお宅だったんですが、私は風邪をひいて、本番中に咳がとまらなくなって、収録がストップして。昼休みにお部屋に寝かせていただいて、鍋焼きうどんを取っていただいたりして(笑)。

すごいドジをしたために、逆に印象が残っていたみたいで、こまつ座の公演『頭痛肩こり樋口一葉』(1985年 春)にお声をかけてくださったんです。

そのときは『娘よ』の巡演が決まっていて出演できなかったんですが、次の公演『きらめく星座』(1985年 秋)のときにまた声をかけてくださって。井上先生の初演出で夢のようでした。先生のダメ出しが文学的で(笑)。稽古場が楽しくてたまらなかったです」

-お仕事もどちらかというと社会派の題材が多いですね-

「そうですね。でも、それだけを選んでいるわけではないんですよ(笑)。

ただ、『父と暮せば』は私にとっては運命的で、被爆者の方との出会いも、この作品がなければなかったですし、『女優を続けよう』って思わせてくれたのもそうです。

『何があっても生きよう』と思えるようになったきっかけの作品ということになります」

◆知られざる沖縄戦を描いたドキュメンタリー映画でナレーション

日本で唯一の地上戦が行われた沖縄戦。その当時を知る体験者、専門家の証言を中心に、米軍が撮影した記録フィルムを交え、米軍の上陸作戦から戦闘終了までを描く映画『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(7月25日(土) 公開)で斉藤さんは、宝田明さんとともにナレーションを担当している。

「太田(隆文監督)さんが声をかけてくださったのもうれしかったし、沖縄は私にとって大事なテーマで、大学に入ったら、福祉のかたわら沖縄を勉強しようと思っていたんです。

それが被爆者の方たちと出会って、その生き方に引きつけられて離れられなくなって、沖縄のことは気になりながら、置いてあった状態だったんです。

でも、いつも頭の片隅にあったことなので、ナレーションのお話をいただいたときはすごくうれしかったです」

-ナレーションを入れながら特別な思いはありました?-

「私はナレーションのお仕事が大好きなんですけど、難しかったです。作品に引き込まれて自分の思いが溢(あふ)れてくるので、感情が入りすぎないように抑えたつもりだったんですが…。

何より、今回の作品は証言がいのちなので、その邪魔をしたくないと思いました。宝田明さんのナレーションも力強くて、やはり体験された方は違いますよね。

私は沖縄のことを少しは勉強したつもりでしたけど、この作品ではじめて知ったことが、少なくともふたつあります。

ひとつは14歳以上の沖縄の子どもたちが兵士として戦わされていたということ。

鉄血勤皇隊の話は聞いていたのに、『14歳』の子どもからということが、ちゃんと把握できてなかったんです。

本土の男の子は17歳からの徴兵なのに、沖縄では14歳から強制的に徴兵されたという事実が、写真の映像を通して突き刺さってきました。

もうひとつは、アメリカが日本を統治するにあたって、日本人の沖縄に対する差別意識を知っていて、それを利用したと、アメリカのハンドブックにまで書かれていたということです。

こんなに早くから、しかもそれが今も続いていることに、愕然(がくぜん)としました」

-太田監督とは映画『朝日のあたる家』(2013年)でもご一緒されていますね-

「はい。東日本大震災での福島の原発事故を題材にした映画でした。

福島の子どもたちが、移住先で差別やいじめにあっているという報道があったとき、被爆者の知り合いが本当に胸を痛めて怒って、『その学校に自分が話をしに行きたい』って言ったんですよ。

『私は原爆で放射能を浴びたけど、今も80代でこんなに元気で生きている。放射能は人から人にはうつらないから、差別なんてやめなさいって言いに行きたい』って。

被爆者の人たちは、福島の人たちのことを自分のことのように胸を痛めて心配しているんです。

私はそこを繋げられないかなって思うんです。構えた堅苦しい感じじゃなくて、福島で不安を抱える人と、被爆者の人が、一緒にお茶を飲んだりするだけでもいいと思うんです。出会えば、感じることって、絶対にあるから」

世のなかで起きていることは全部つながっていて、自分とも深く関わっている。自分が支えてもらい、助けてもらった恩返しをしたいという真摯な思いが凛とした眼差しから伝わって来る。2008年から昨年末までは、高齢者のデイサービスセンターで介護福祉士として勤務していた斉藤さん。妹さんは医師になり、現在、クリニックで新型コロナウイルス感染症におびえる患者さんたちと、日々向き合い続けているという。1日もはやく終息してくれることを願うばかりだ。(津島令子)

※映画『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』
2020年7月25日(土)より新宿K’s cinemaにてほか全国順次公開
日本で唯一の地上戦が行われた沖縄。その凄惨(せいさん)な戦闘を沖縄戦体験者12人の証言と専門家8人による解説、米軍が撮影した記録映像を駆使して克明に描いたドキュメンタリー。
配給・宣伝:渋谷プロダクション
監督:太田隆文
ナレーション:宝田明 斉藤とも子

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