キラーカン、相撲部屋を“夜逃げ”してレスラーに…米国で活躍後、栃錦親方の“ある言葉”に涙

公開: 更新: テレ朝POST

1980年代にモンゴル人の悪役レスラー“蒙古の怪人”として国内だけでなく、メキシコ、アメリカ、カナダなど海外でも広く知られ、アメリカでは人気・実績ナンバーワンの日本人レスラーとなったキラーカン(現役時代の呼称はキラー・カーン)さん。

辮髪(べんぱつ)、口ひげ、モンゴル帽スタイルで196cmの巨体から繰り出されるモンゴリアンチョップやトップロープからのダイビング・ダブル・ニー・ドロップで大ブレーク。2m23cm、236kgの巨人レスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った男としても知られているが、人気絶頂だった1987年、プロレス界から引退。現在は、東京・新宿で「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」を経営。故・立川談志師匠のお墨付きの美声の持ち主でもあるキラーカンさんにインタビュー。

◆新型コロナウイルスの影響で大打撃

JR新大久保駅から徒歩1分のところにある「居酒屋カンちゃん」は、キラーカンさんにとって9軒目となるお店。1989年に最初にお店をはじめてから31年、壁にはアンドレ・ザ・ジャイアントをはじめ、多くのプロレスラーの写真やポスターが貼られ、プロレスファンも多く訪れるという。

「31年も店をやっていれば色々なことがありますよ。移転を繰り返しながら頑張ってきたけど、今回のコロナほどひどい落ち込みははじめて。

最初にコロナのニュースが出はじめた頃は、ほとんど影響がなかったんですよ。でも、2月29日(土)の安倍首相の(一斉休校)会見以来、お客さんが減って、4月7日(火)の緊急事態宣言でもうダメ。

それでも、都の要請を遵守(じゅんしゅ)して、ラストオーダーを19時、閉店は20時でやっていたんだけど、本来は24時までやっている店だからね。営業時間が半分でしょう?それにお客さんもあまり飲みに出なくなったしね。今度は休業要請になったから休業して。

店を閉めていても家賃や光熱費の支払いとか、板さんたちの給料もあるし、泣きたくなりますよ。

でも、おいらなんかはまだマシなほうですよ。店が開けられないって、イラっとするくらいだけど、医療関係者の人たちはくらべものにならないくらい大変だもん。

毎日、自分も感染するかもしれないという危険を抱えながら、一生懸命コロナと戦ってくれているわけだからね。頭がさがりますよ。あの人たちに比べたらおいらなんて全然ですよ。

緊急事態宣言が解除になったしね。店は40人お客さんが入れるんだけど、10人ぐらいにして、ウイルス対策をしながらやっていこうと思っています」

※キラーカン プロフィル
本名:小澤正志。1947年3月6日生まれ。新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身。1963年、16歳のときに春日野部屋に入門するが、1970年に廃業。71年、日本プロレスに入門。73年、新日本プロレスに移籍。77年からは海外武者修行でメキシコへ。モンゴル人の悪役レスラーとして注目を集め、キラー・カーンと改名。辮髪、口ひげ、モンゴル帽スタイルで大ブレークし、国際的な成功を収める。美声の持ち主として知られ、故・立川談志師匠の仲介で三橋美智也さんの門下に。1987年、プロレス界から引退。現在「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」を経営し、歌手としても活躍。5月8日には3枚目となるシングルCD『カンちゃんの人情酒場/カンちゃんののれん酒』が発売された。

◆相撲部屋から夜逃げ…親方の優しさに涙

キラーカンさんは、高校を1年で中退し、恵まれた体格を活かすべく、春日野部屋に入門。1963年3月場所にて「小澤正志」という名で初土俵を踏むことに。

「背がでかくて相撲やプロレスが好きだったんですけど、からだが細くて骨と皮だったんですよ。たまたま自分の知り合いが、春日野親方、先々代の栃若時代の栃錦(春日野)親方の知り合いで、俺のことを『ちょっとデカい、いいのがいる』って言ったみたいでね。

自分も勉強があまり好きな方じゃなかったし、大きいからだももらったんだから、やってみようかなって思って、春日野部屋に入門したんです」

-お母様もお相撲がお好きだったそうですね-

「そう。おふくろが偶然、栃錦親方のファンでね。栃錦親方の春日野部屋だったらいいということでね。上野までおふくろと一緒に汽車に乗って来たら、春日野部屋のお相撲さんがまっていてくれてね。

部屋に行って親方にあいさつしたのを覚えていますよ。本当にいい親方でね。栃錦親方みたいないい親方はいないんじゃないですかね。

夜、俺たちみんなが布団を蹴飛ばして寝ているでしょう?そうしたら、夜中の12時半くらいに親方が懐中電灯をつけて回ってきて、全部布団をかけてやるんですよね。

それで、あの頃下っ端は4時頃には起きて4時半くらいから稽古場におりないといけないんですよ。俺が4時半におりていったら、親方がもう土俵の火鉢のところにあぐらをかいて座っているんですよ。

『親方は何時間寝ているんだろう?』って思いましたね。栃錦親方は本当にすばらしい方でした」

-お相撲をはじめたときにはどうだったのですか?-

「とにかく細かったんですよ。身長が186cmぐらいで体重は90kgあるかないか。

骨と皮ですよ。だからまわしを締めると、肉がないから腰骨にまわしが直接当たって痛かったんです。『気をつけ』ってやったら、腹を引っ込めなくても、まわしと腹の間に指が4本入るくらい痩せていましたからね。紙を畳んで腰骨にあてていました。

でも、やっぱりガンガン食べて運動したら、だんだん大きくなっていきましたけどね。

それで、たまたま俺がケガをして、整形外科に行ったとき、現在俺が一番尊敬している北沢(幹之)さんという、元レスラーの方が来ていて『背も高いんだし、プロレスラーになってみたらいいんじゃない?私が紹介してあげるから』って言われたんです。

それで、親方に『辞めさせてください』って言ったんだけど、辞めさせてもらえなかったから、夜逃げしたんですよ。

でも、夜逃げしたはいいけど、まだ腰が悪かったし、食べるものもないから、友だちのところに行って病院通いをして。完全によくなってから北沢さんに電話をいれて、代官山の駅で待ち合わせして『日本プロレス』の事務所に連れて行ってもらいました。

そこに幹部の人がみんないて、『上半身裸になれ』って言われたから上半身裸になったら、『大きくなりそうだな』って。それで、『病院に行って、どこも悪いところがないという診断書をもらって来い』って言われて、見習生、テスト生ですよね」

-いくつのときだったのですか-

「22でした。それでテスト生を4、5か月やって、23でデビューしたわけです」

-春日野部屋のほうは、夜逃げしたままですか?-

「しばらくはそのままだったんですけど、キラー・カーンになってアメリカである程度活躍して日本に帰って来たとき、春日野部屋の親方の奥さんが、何日か前に亡くなったということを聞いて、それですぐに親方のところにあいさつに行きました。

そのときに俺は幕下以下の力士が入る入口から入ったんですけど、栃錦親方が、『小澤、お前は今度から正面から入って来い』って言ってくれてね。

それで線香をあげさせてもらったら、親方が喜んでくれて、体重を聞かれたから『140kg近くあります』って言ったら、『相撲のときに何で太らなかったんだ?お前は太っておけば、幕内とか三役に上がれるものを持っていたよ』って。

まあ、お世辞だと思いますけどね(笑)。それで、『でも、今はキラー・カーンという名前になって、海外でも活躍してよく頑張っているなあ。けがしないで頑張れよ』って言ってくれてね。うれしくて涙が出ました」

◆“モンゴル人”になってメキシコへ行くことに

日本プロレスに入門したキラーカンさんは、吉村道明さんの付き人をつとめた後、坂口征ニさんの付き人をすることに。そして1972年、日本プロレスからアントニオ猪木さんが独立し、新日本プロレスを設立。翌年、坂口さんも猪木さんについていくことに。

「俺は坂口さんの付き人をしていたから、新日本に行かざるを得なかったんだよね。その頃、ジャイアント馬場さんも独立して全日本プロレスを作ったんですよ。

馬場さんはいい人だったし、同じ新潟県出身だったから、俺は、本当は馬場さんに付いて行きたかったんだよね。そうしたら、俺の人生はまったく違うものになっていたと思うけどね」

1976年、29歳のときに西ドイツの「ハノーバー・トーナメント」に出たキラーカンさんは、海外のプロモーターからも注目を集め、本格的な海外武者修行としてメキシコへ行くことに。

「『えーっ、メキシコ?あの小さい選手ばかりいるところ?』って思ったけど、会社には逆らえないしね。

そうしたら『ただし、お前日本人じゃないぞ。メキシコには、日本人選手が何人もいるけど、みんなあまり体が大きくないから、メキシコのプロモーターが、からだが大きいのが欲しいと。だからお前が行くことになったけど、お前はモンゴル人になって行け』って。

『なんでモンゴル人?』って思ったけど、会社の命令ですからね。『わかりました』って言って、それから頭の毛を伸ばして、真んなかを残して、あとは剃って辮髪にしたんですよ。

本当のモンゴル人に声をかけられたこともあるけど、参りました。わかるわけないからね(笑)。

メキシコの日本レストランの寿司バーに行ったときなんて、『すみません。このマグロとイカと』って注文したら、『日本語うまいね』って言われたから、『自分は日本人でモンゴルなんて行ったこともない』って言ったら、大笑いされましたよ(笑)」

-最初から辮髪でヒゲをと考えていたのですか?-

「そう、それをキャラクターでやろうと思って。小学校6年生ぐらいのときに、テレビがなくて隣の家にテレビを見せてもらいに行っていたんですけど、その頃は力道山さんが出ていて、興奮して見ていたんですよね。

アナウンサーが、『謎の覆面レスラーX、国籍不明なレスラー、ミスターX』って言っていて、子どもの頃、『国籍不明』という言葉にからだが震えたのを覚えていますよ。

よく考えれば国籍不明だったら、羽田空港降りて日本の国に入ってこられないですよね(笑)。

だから、今考えれば大笑いですけど、あの頃はそういうのも通用したんですね(笑)」

◆アメリカでトップクラスの悪役レスラーに

メキシコで武者修行をしていたキラーカンさんは、「プロレスの神様」と称され、猪木さんをはじめ、多くの日本人レスラーを指導してきたことでも知られるカール・ゴッチさんの計らいで、アメリカに渡りヒール(悪玉)としてファイトすることに。

「カール・ゴッチさんが俺のことをすごい可愛がってくれてね。メキシコからアメリカの(フロリダ州)タンパに着いたとき、迎えに来てくれたんです。

それで最初の試合をタンパでやったとき、トップロープから『ニードロップ』をやったんですよ。

俺の『ニードロップ』は、トップロープから落ちるだけじゃなくて、いったん上に高く飛び上がって急降下して相手の喉元に右膝を落とすんです。

まず、相手が逃げられないように、その前にパイルドライバーでも、何か技をかけておいて、トップロープから上にジャンプをして急降下して、右膝を相手の喉もとにやって、両足で座り込む。それをやって見せたら、エディ・グラハムさんとか、すごい人たちがみんないたんですけど、『あんな技は見たことがない。すごい』ってはじまって。

それでまた、アメリカは食べ物がうまくてね(笑)。メキシコでは水も合わなくてお腹(なか)を壊したりしたけど、アメリカは食べ物もおいしいし、食べ放題のお店もあったから、ガンガン食べて練習をバンバンしたらどんどん体が大きくなっていきましたよ」

-アメリカのお客さんはどんな感じですか?-

「ちょうど俺がアメリカに行ったとき、ヒロ・マツダさんがいて、『小澤さんね、試合をもらっても、ただリングに上がってやっているだけじゃダメなんだよ。アメリカはお前がヒール、ワルなんだから。

相手はアメリカ人で、ベビーフェイス(善玉)。見ているお客さんはベビーフェイスを応援している。ちゃんと相手を持ち上げてやって、それでお前も持ち上げてもらって、良い試合をやらないとダメだよ』って。

とにかく迫力をつけろって。デカくたって、迫力がなかったら、『なんだ、ウドの大木か?』ってことになる。だから、『とにかく迫力をつけろ。それで、トップロープからニードロップ、あれは最高だから』って言ってくれて。

お客を入れられなかったら日本と違ってすぐにメーンエベントから外されて、前座をもらえたら、まだ少しはメシ食っていけるけど、前座ももらえなくなる。

だからとにかく、上に上がったら上がったで、日本と違って責任があるからね、だから絶対に、一生懸命練習して、試合も迫力をつけて、お客さんに気に入られるようにならないとダメだということを言ってくれて。あれがやっぱり俺には良かったんですね」

大きなからだから繰り出される迫力の技で多くのファンを魅了し、トップクラスのヒールとして注目を集めた“キラー・カーン”は、タンパ、フロリダ、ジョージア、ルイジアナ…アメリカ各地でメーンエベンターとして欠かせない存在になっていく。

次回はアンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った男として知られることになった試合、プロレス界からの引退についても紹介。(津島令子)

※「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」
TEL 03-5285-1115
東京都新宿区百人町1丁目6-14-1F
定休日:毎週日曜日 祝日

※『カンちゃんの人情酒場/カンちゃんののれん酒』発売中
作詞:新山ノリロー 作曲:佐神光次郎 編曲:伊戸のりお
発売元:(株)アクセスエンタテインメント

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