79歳のランナーが走り続ける理由は、52年前の“後悔”。「今でも悔しくてなりません」

公開: 更新: テレ朝POST

テニスの現役を退いてから、“応援”することを生きがいにしている松岡修造

東京オリンピック・パラリンピックに向けて頑張る人たちを、「松岡修造の2020みんなできる宣言」と題して全国各地を駆け巡って応援している。

1968年、メキシコオリンピック。日本中の期待を背負い、マラソンで快挙をなしとげた選手がいた。

銀メダルを獲得した君原健二さんだ。

©テレビ朝日

あれから52年、修造は今回、79歳になった君原さんの秘めた話を聞くことができた。

実は君原さん、東京オリンピックの聖火リレーを走る予定だった。自治体やスポンサー企業あてに熱い想いを作文にしたため、見事聖火ランナーの一般枠に選ばれたのだ。

「本当に円谷さんとともに聖火を運びたいと。福島県の須賀川市で聖火ランナーをさせてほしいと応募したんですよ」

君原さんの言う円谷さんとは、1964年の東京オリンピックの男子マラソン銅メダリスト・円谷幸吉さんのこと。福岡県出身の君原さんが聖火ランナーを熱望した福島県・須賀川市は、円谷さんの地元だった。

「かけがえのない大切な人でしたね。東京オリンピックをともに戦った戦友みたいな感じでもあります。本当に大切な人です」

円谷さんの存在についてこう語る君原さん。2人の出会いは学生時代。ともにエリートではなかったが、競い合い、東京オリンピックの代表に上り詰めた。

迎えたオリンピック本番。あふれんばかりの大観衆が沿道を埋め、大きな歓声を受けた君原さんは…。

「オリンピックの責任感は辛かったです。国民の皆さんから受けたプレッシャーが辛かったことを思うと、非常に心が統一されていなかったといいますか、安定してなかったですね。しかし、円谷さんは静かに、冷静に、非常に心が落ち着いていたと思います」

結果、プレッシャーに押し潰された君原さんは8位。一方、冷静でい続けた円谷さんは銅メダルを獲得した。

しかしその4年後、思いもよらぬ悲劇が起こる。

◆戦友の死。今も残る“後悔”

1968年1月、目指していたメキシコオリンピックの直前、円谷さんは自ら命を絶った。

地元・須賀川に残る遺書には、「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と当時の心情が書き綴られていた。

悔しいと思いました。とにかく悔しいと思いました。大切な人が亡くなったことは本当に今でも悔しくてなりません

52年の月日が経っても、君原さんに残る後悔の念。当時、相次ぐケガで「国民の期待にはもう応えられない」と、1人で思い詰めていた円谷さんの気持ちに気付けなかったのだ。

今でも、亡き友を思い続ける君原さん。決して忘れることのないエピソードを教えてくれた。

「円谷さんと一番うれしい思い出はですね、東京オリンピックの2ヶ月前に札幌で合宿をいたしまして。1万メートルの記録会がありまして、円谷さんと私はともに日本記録を出したんです。そのことがうれしくて、ビールを4本空けました。とてもうれしかったんですよ」

「円谷さんは明るくて、朗らかなタイプで、よく冗談を言ったりしていました。ベラベラ喋る方ではありませんが明るい性格でしたね」

©テレビ朝日

円谷さんのためにも、走り続けることを心に決めた君原さん。70歳を越えた今でも、円谷さんの故郷で開催されるマラソン大会に毎年参加している。

その際、友が眠る墓前で必ず行うことがある。

1本の缶ビールを開け、半分だけ飲み、もう半分を供えるのだ。笑顔でビールを飲み交わした、あの楽しかった思い出の続きを2人でするために――。

君原健二さんのできる宣言は「円谷さんと一緒にオリンピックを精一杯応援したい!」。修造は「応援しよう!」と君原さんにエールを送った。

※番組情報:『TOKYO応援宣言
毎週日曜あさ『サンデーLIVE!!』(午前5:50~)内で放送、「松岡修造の2020みんなできる宣言」も好評放送中、テレビ朝日系

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