世界が認めた演劇人・笈田ヨシ、親交があった三島由紀夫の“天才ぶり”「これはもうすごいですよ」

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日本を離れて50年、パリに住み、世界各国で俳優として、また演出家として活動している笈田ヨシさん。

『ピーター・グリーナウェイの枕草子』(1996年)、『最後の忠臣蔵』(2010年)、『沈黙-サイレンスー』(2016年)、『ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~』(2017年)をはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、日本の映画にも出演。10月18日(金)には映画『駅までの道をおしえて』の公開も控えている笈田ヨシさんにインタビュー。

◆父親の会社倒産でいっきに極貧生活の俳優に…

兵庫県で自転車工場を営んでいた家の長男として生まれた笈田さん。戦前でまだテレビ放送がなく、映画の上映館も少なかったため、娯楽の中心は常に芝居。笈田さんは仕事で忙しい両親に代わり、お手伝いさんに連れられてよく芝居小屋へ通っていたという。

「お坊ちゃんだったんですよ。父親は『阪神自転車』という自転車を作っていたんですけど、戦争になったら『平和産業はいけない』と言うので、軍事産業に変えなきゃならなくて、おやじは潜水艦のハンドル作りの工場に変えたんですよ。

それで戦後にまた自転車屋に戻ったんですけど、僕が26歳のときに会社がつぶれておやじが死んじゃってね。それで財産も全部なくなったので、お坊ちゃんから全く何もない貧乏になって…。明日食べるものもないというほど貧乏になりました」

-会社の後継ぎなのにお芝居をされることについて反対はされなかったのですか-
「されませんでした。男の子は僕一人だから、父親は僕の言うことは何でも反対しなかった。それで大学も『お前勉強するな。勉強したら死ぬから遊べ』って(笑)。

それで役者をやるって言ったら、『大学までやって、どうして役者なんかになるんだ』とは言いながらも、『やめろ』とは言わなかった。でも、それで僕がまだペーペーの26歳のときにおやじが死んで会社もつぶれちゃったからね。役者を続けるハメになりました」

-演出家志望で、そのためにはまず一流の俳優にということで文学座に入られたそうですね-
「そうです。それで入ったときは、僕は名優になれると思っていたんですよ。でも、入ったら最初に『お前は天才じゃない。ダメだ。芝居をやめたほうがいい』って言われてね。

それで、『何?なにくそ』って思って色々勉強しましたけど、ずっと『お前ダメだ』って言われていたんですよ。それで28歳ぐらいのときに、『どうせ俺はダメなんだ』って思ったけど、おやじの会社がなくなったので続けるよりしょうがない。昔はね、途中で仕事を変えることができなかったですよね。

でも、『名優になりたい』と思っていたときは全然ダメで、『自分は天才じゃない。ダメだ』って思ったぐらいの頃から『まあ、役者を続けてもいいんじゃないか』って言われるようになったんですよね」

-欲とか野心があるときはダメだったということですか-
「そうです。僕の場合はダメみたいですね。だから、自分が諦めて、『俺はダメな人間なんだ』っていうことを受け入れてから、ようやく自分の仕事ができるようになった」

-文学座は昔から入るのが難しくて、なおかつ入ったら授業料も高いと聞いていますが-
「いや、僕たちの時はただ(無料)でした。研究生になって、舞台に出ても出演料は出ない。だから、生活費はおやじが死ぬまではおやじからもらっていたし、あとはテレビとか映画。

今は若い役者さんがレストランで働いたりしていますけれども、あの頃は『ニコヨン』って言ってね。港で荷物を運ぶような日雇い労働をすると240円くれたんですよ。男はそれしかなかったんですよ、仕事は。

でも、僕はそれができないから本当に困りましたね。つまり、テレビ、映画、ラジオも、芝居に出ているときにはやれないし、貧乏貧乏貧乏で暮らしていました」

※笈田ヨシプロフィル
1933年7月26日生まれ。兵庫県出身。慶応大学在学中に、文学座に入団し10年在籍。劇団四季を経て、1970年にピーター・ブルックが設立した国際演劇研究センター(CIRT)に参加したのを機に渡仏。ブルック演出の『マハーバーラタ』(1985年初演)、『テンペスト』(1990年初演)をはじめ、多くの舞台に出演。『あつもの』(1999年)、『最後の忠臣蔵』(2010年)、『沈黙-サイレンス-』(2016年)、『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』(2014年)など国内外の映画にも多数出演する一方、演劇、オペラ作品の演出も数多く手がけている。1992年にフランス芸術文化勲章シュヴァリエ、2007年に同オフィシエ、2013年に同コマンドゥールを受勲。

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三島由紀夫の弟子に?

笈田さんが文学座に入団した当時、指導的立場にあったのが芥川比呂志や三島由紀夫だったという。そして笈田さんは三島が演出する舞台『サロメ』に出演することに。

「『ボクシング部』というのを三島さんがお作りになって、そこに僕も入ったときにお目にかかったのが最初でした。それでそのあと先生が『サロメ』をやるときに、チョイ役だけど、そのころの僕にしては大役をいただきました。それで色々と奥さんにも先生にも可愛がっていただいて」

-三島さんにボディービルにも連れていかれたとか-
「ボディービルの指導をしてくれる方に紹介していただきました。別に三島さんが僕に教えてくれたわけじゃないんですけれどもね。『サロメ』の衣装が上半身裸だったんですよ。

でも、僕はその頃ガリガリで洗濯板みたいな体でしたからね。先生に『僕は洗濯板です』って言ったら、『じゃあ、俺の弟子になれ』って言って連れて行かれて。

有楽町のガード下にジムがあったんですよ。そこに連れて行かれて、そこでボディービルをやって舞台までに体を作りました。昔はハンサムでいいカラダをしていたんですよ(笑)。そのときは岸田今日子がサロメをやってね」

-肉体改造した笈田さんに三島さんは何ておっしゃっていました?-
「別にほめてはくれなかったですね。何も言わなかったなあ(笑)。

稽古中には時々、『お前に肉を付けてやる』って言って、スエヒロのビフテキをごちそうになったりしました。先生は私より8歳年上でしたけど、友だちみたいな話し方で、とても気さくな方でした」

-亡くなったときには驚かれたと思いますが、何か死を予感させるようなことはありました?-
「先生はその2年位前に『死ぬ』とおっしゃっていたので『この方は死ぬんだ』と思っていましたからね。

だから『先生が死んだら、先生のサイン付きの本は高くなるでしょうね』って言ったら、『そうだよ。だからお前ももらっとかなきゃダメだよ』って言っていたんですけど、一冊ももらわなかった。残念。どうしてもらわなかったんだろう?」

―笈田さんは、今年も『豊饒の海』など三島さんが書かれた本をもとに舞台もされていますね-
「この舞台の原作は約60年にわたる物語で、僕が三島先生演出の舞台『サロメ』に出演させていただいたのがほぼ60年前。色々思い出しますね。60年を経て三島先生の作品をやらせていただくなんて、何か運命を感じました。

来年が没後50周年になるんですね。僕は先生の作品はあまり好きじゃなかった(笑)。そりゃあ良い方だったから、人間としてすてきで素晴らしい。天才だから、そりゃあ素晴らしい方ですけどね。

ただ、たとえ話のうまさ、表現のうまさ、語彙(ごい)の選び方のうまさ、これはもうすごいですよ。天才ですよね。ですから、やっぱり、ああいう方、天才にお目にかかったおかげで、自分は天才じゃないということがイヤというほどわかって良かったですよ。

つまり、誰でも仕事を始めると『俺は天才じゃないか?』と思ったりするじゃないですか。だけど、本物の天才が目の前にいると、自分が天才じゃないってハッキリ、自分の身のほどがわかって、天才にお目にかかって良かったですよ(笑)」

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◆ピーター・ブルックと運命の出会い

1966年、笈田さんは10年在籍した文学座を離れ、劇団四季に入る。それから1年半後、1968年春、笈田さんは、演劇界ですでにその名を知られる存在となっていた演出家、ピーター・ブルックが、アメリカ、イギリス、フランス、日本の俳優を集めて演出する舞台に出演する日本人俳優に選ばれてパリへと旅立つ。

-当時はまだ海外に行くこともなかなか大変な時代だったと思いますが-
「そうです。だから運が良かったですよね。運が良いというか、奇異な運命というか…。

たまたまピーター・ブルックという有名な方が、初めて国際グループを作って、その彩りに日本人も入れていただいてね。

海外に行く機会もまれな時代にパリに行って芝居ができて、給料ももらえるなんて、こんなにありがたいことはないと思って喜んで行ったんですけど、当時パリは『五月革命』の真っただなか。フランスの俳優組合はストライキに突入し、オデオン座もデモ隊に占拠されてしまい、ブルックが演出するはずだった舞台が上演できなくなってしまったんです。

それで何もできずに帰国しましたけど、その翌年にブルックから手紙をいただいてね。その手紙には、『パリに世界各国の演劇人、演出家、脚本家、音楽家、美術家、俳優で構成した演劇センターを作りたいから加わらないか』って書いてあったんです。それで3年間行くことになって」

-3年間という長い期間、海外で過ごす不安はありませんでした?-
「それはありましたよ。3年後に帰国したときに自分の居場所がなくなっているんじゃないかという不安はね。でも、3年間ブルックのもとで一生懸命やれば、新たに開ける道もあるかもしれないと思って誘いを受けました」

-その間はどんな生活だったのですか-
「即興劇などを行いながら演劇の本質を探ろうという試みだったので、イランの田舎や西アフリカ、ニューヨークのブルックリンなど世界各地で即興芝居をやっていました。当時はそれが今に至るまでの海外生活の始まりになるとは思ってもいませんでしたけどね(笑)」

-ブルックさんに初めてお会いになったときはいかがでした?-
「あの頃僕は演劇っていうのは、社会性がなきゃいけないとか、いわゆる世のなかの不条理、戦争というものに反対を唱えるために演劇をやると思っていた。

だけどあの方は、政治的なことを何も話さなかったから、僕はある意味軽蔑していた。それはちょうど小津安二郎の『晩春』がすごく話題になって、それを16歳のときに見たんだけど、僕はそのとき左でしたから、こんな社会性のないブルジョワの映画というのを芸術家というのは軽蔑すべきだと思って、もうこれから小津作品は見ないと思ったんですよ。それでブルックと会ったときも、この人は全然政治に興味のないブルジョワ作家じゃないかと思った。

でも年月が経って、小津安二郎の『東京物語』を見たんですよ、パリで。そのときには僕も年をとっていて、『あぁ、これこそ人間を表現する映画だ』と思って感動して。昔『もう小津映画は見ない』なんて思ったのは、若気の至りだったなって(笑)。

で、結局ブルックも、つまり『戦争やめろ』ということを声に出して言いたければ、政治活動をやればいいのであって、演劇というのは、『どうして人間は戦争するんだ?』とか、『どうして人間はお金が欲しいんだ?』とか、そういう人間のなかの奥深くにある『人間の業(ごう)』というか、人間の動物的な欲望、そこを探ることによって、もっともっと深い、戦争を起こす人間、それから人を傷つける人間、そういう人間とはどういうものなのか奥深く探るために彼は演劇をやっているんです。

だから僕は初めて会ったときには若気の至りでよくわからなかったけど、今はやっぱり演劇というのは、人間探求を舞台で表現するのが芝居だと思うようになりました」

50年以上に渡って世界各国で活動を続けている笈田さん。宿無しみたいでいつも旅している感じだと話す。次回後編では、映画『駅までの道をおしえて』の撮影裏話も紹介。(津島令子)

©2019映画「駅までの道をおしえて」production committee

※映画『駅までの道をおしえて』
10月18日(金)より全国ロードショー。
企画・製作:GUM、ウィルコ  配給・宣伝:キュー・テック
監督:橋本直樹 出演:新津ちせ 有村架純 坂井真紀 滝藤賢一 笈田ヨシ
愛犬の帰りを待ち続ける少女(新津ちせ)と、先立った息子との再会を願う老人(笈田ヨシ)が出会い、思いがけない友情で結ばれていく…。

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