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TBSを代表する人気アナウンサーとして、朝のワイドショー『モーニングEye』から『筑紫哲也 NEWS23』(以下『23』)など報道番組まで、数多くの人気番組に出演していた渡辺真理さん。報道志向ではなかったものの、キャスターに就任することになり、約1年間務めて降板することになるが、そのことを真理さんが知らされたのは、新キャスターの記者発表当日のことだったという。

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◆番組のリニューアルと降板を知ったのは、新キャスター発表記者会見の横断幕

-『23』の第2部のキャスターは約1年ですか-

「はい。1年経ったときに、番組自体がリニューアルすることになり、スタッフも含め大きな異動が行われました。番組終了やリニューアルのときは、内部外部を問わずバタバタするものですよね。

私もいつものように『23』スタッフルームに行くエレベーターに乗ったら、番宣(番組宣伝)の方が記者会見で使う縦長の垂れ幕を持っていらして、そこに『NEWS23リニューアル会見』と書かれていて。よく知る番宣の先輩だったので『あれ?23ってリニューアルするんですか?』と聞いたら『うん』と。そこで初めて知りました」

-事前に聞かされていなかったんですか?-

「その日までは。会見当日に当時の『23』プロデューサーから、そしてアナウンス部の部長がOA前にスタッフルームまで来てくださって、リニューアルのことを告げられました。

確か『23』第2部のデスクもスタッフも知らされていなかった記憶があって、それは私にとってもショックでした。入社数年の下っ端で『23』でも新参者の私は仕方ないけれど、筑紫さんの周りの初期の頃からのスタッフの心情を思うと。外部へもですが、内部のどこまでにどれだけ知らせるかの判断は、きっと難しかったのだろう…と、今になると思います」

-それはショックだったでしょう?-

「うーん…番組が終わったり、自分が力不足で外れることになるのは、正直常にショックで情けなくなりますけど、それを口に出したくはない気持ちの方が大きくて。津島さんにだから、しゃべっちゃってますけど(笑)。

『23』が終わる、いや、変わるときのショックは、あの『筑紫ゼミ』のような場所が無くなってしまうような感覚にとらわれたからです。

無くなるわけじゃないんですけどね、リニューアルですから。ただ『23』って、ニュース番組ではあるけれど、筑紫さんという教授みたいな存在を囲むゼミのようなリベラルでアカデミックな空気がスタッフルームにあふれていたので。

だから、私みたいなゼミ新入生より、何年も筑紫さんに学び、創ってきたスタッフが番組から離れるのは寂しく、つらかったはず…。

でも、番組って結局もっと強いものですよね。その時その時の創り手の感傷をのみ込みながら、続いていくのが番組。あのときは筑紫さんも最終的には合意なさってのことと、それぞれの思いを抱きながらスタッフは異動し、廃止になる2部メンバーは散っていったと思います」

-そのあとに、会社を辞める決断をされたのですね?-

「『23』を外れたことが会社を辞める決断に直結したわけではないです。もちろん、続行していたら辞めるという選択肢を持つこと自体、無理だったかもしれませんけれど。

ちょうど同じタイミングで、担当していた他の番組『そこが知りたい』やラジオの日曜生放送も終了することになって、入社以来はじめて真っさらな更地になる感覚だったんです。不安もあったけれど、どこかすがすがしい気持ちもあって。これからどう会社に役立っていけるのか、自分自身は何をしたいのか、考える時間も持てたんだと思います。

番組って、というか、テレビってという方が正しいかもしれないですけど、新しいもの、変わってるもの、面白いものを日々取り込んでいかないと壊死しちゃう媒体ですよね? 飽きられないためには。だから常に新陳代謝も細胞分裂も必然なのだけど、それは創る側を消費していく面もあるわけで。

スタッフが精魂込めて創っている番組が終了するとなったときは、自分の非力も含めて消耗し、ヘコむわけです、勝手に。『モーニングEye』に就いたときから、番組のことを第一に考えてスタッフが私を交代させようと判断したときには喜んで従いたい、と決めてはいました。

ただ、現場が散り散りになる経験を重ねていくなかで、自分でも気づかないうちに消化しきれない思いが澱のように溜まっていって…そんなときに、『ニュースステーション』の久米さんから声をかけていただいて『続けてみよう』と思うことができた。久米さんとご一緒していなかったら、アナウンサーを辞めていたのじゃないかと思います」

-辞めるかどうかと考えたのはどのくらいの期間だったのですか-

「“辞める”という言葉にまでは行き着いていなかったですが、『モーニングEye』の打ち切りは、ずっと根っこにあったと思います。だから、津島さんやあの頃お世話になった方々には正直でいたい思いがあって、今回も記憶の限りで答えたいのですけど…半年くらいだったか、もっと短かったかもしれないです、退社を考えて決めたのは。

さっきお話したように担当番組が終了して更地になったことで、誰にも迷惑をかけずに辞すことができる条件が整った、そのタイミングが大きかったと思います。そうじゃないと現場に迷惑をかけることになりますし、それは最も本意ではないので。

あと、ちょうど『女子アナ』という言葉ができ始めたときと重なって、『あ、もう出る幕じゃないかな…』と感じたこともあったかと」

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◆空前の「女子アナ」ブームが到来し…

今では各テレビ局のアナウンサーのカレンダーやグッズが作られるのは当たり前になったが、90年代初頭ぐらいまではアナウンサーのタレント化はフジテレビの専売特許という感じだった。しかし、90年代後半に「女子アナ」ブームが…。

「あの頃の私をご存じなのでバレてると思うのですけど、本来地味な性格なんです。アナウンサーという職種として『聞くこと』『伝えること』には精進したいけれど、『私を見て』という存在にはなれないし、腰が引けてしまう。

でも、局としてフジテレビさんに倣って女子アナカレンダーやビデオを作ろうという時流も方向性も、頭では理解できるわけです。もしも私が広報にいたら、せっせとたき付けてグッズ展開を増やそうとしていたかもしれない。

でも、アナウンスの仕事関連ではなく、自転車に乗るシーンやショッピングを楽しむシーンを撮影して売り出すとなると、当事者としては二枚舌みたいになるところが結果、出てきてしまうので…。

つまり、担当している番組のテレカ(テレホンカード)など取材のささやかな謝礼でお渡しする物はいいんですが、番組の備品ではない商品を全国の書店・レコード店で販売するとなると、東宝の女優さんのカレンダーやアイドルカレンダーの横にTBSアナウンサーのカレンダーも並ぶことになって、『グッズは買ってください、でも社員なのでプライベートはお答えできません』という姿勢になるわけですよね。

ワイドショー出身として『迷惑でない取材はない』、つまり日常に立ち入って急にマイクを向けるという取材行為は誰にとっても迷惑以外の何者でもない、その心づもりでマイクを向けるようにと教わってきた立場から、芸能人や政治家に自分はマイクを向けるけれど、向けられたマイクには答えないのでは筋が通らないと感じていました。面倒くさいですよね、私(笑)。

これはあくまで当時の状況なので、時世が変わってきた今はどんなにグッズを出しても矛盾の起きる余地なんてないのだろうと思いますけど」

-アナウンサー扱いではなくなるということですね-

「そうですけれど、乱暴な言い方をすると扱いはどうでもいいと思っていたんです。仕事で画面に映ったとき、アナウンサーと思われてもタレントさんと思われても、誰?これ?と思われても、受け止め方や扱いはこちらで決められることじゃなくて、見てくださる方がそれぞれ判断なさるのがテレビの面白いところだと思っているので。

一方で、その頃の週刊誌や写真誌は予算が今以上にあった分、張り込み方など半端なかった記憶があります。向かいの部屋をカメラマンの方がひと月くらい借りて、ずっと狙うような状況があったり。

雨宮塔子ちゃんや進藤晶子ちゃんなど仲良くしてくれた同僚から、私が少し年長だったこともあって『つらい』と打ち明けられても、守れる策がなくて情けなくもありました。守るなんておこがましいのですけど、心情としては少しでも助けになりたかった。

だから、どんどん女子アナグッズを展開するのと社員でいることを使い分けるのはやっぱり無理が重なっていくのじゃないか、と」

-その当時のアナウンス部のデスクは林美雄さんですね-

「はい。アナウンサーとしてすごい方なのですけど、シャイで茶目っ気があって、ちょっとシニカルで、大好きだったんです。『パックインミュージック』など伝説的な番組を生み出した先輩ですが、年次でデスクを担当されていました。

後輩のことをよく考えながら他部署と慣れない交渉をしてくださっていることも実感してました。天才的なセンスと言われた林さんはデスク業務よりマイクの前の方が似合うのに、その林デスクに『真理、気持ちはわかるけど…決まったことだから。カレンダーの12月が空いちゃうから』って困ったようにさとされるのは、切なかったです。

結局、そのカレンダーの12月にはすごく微妙な表情の私が写っていて…ダメですよね。業務をきっちり勤められないのは。

とにかく林デスクを困らせたくない、でもこのままだと後輩たちも業務と取材攻勢のなかで疲弊していく、週刊誌や写真誌の記者さんに突撃という形で聞かれたら『答えられないです』という答えも含め、向き合おうとしてしまう自分がいる、そうすると広報の方々に対しては断りもなしに余計な業務を増やすことになる…。

“あっちを立てれば、こっちが立たず”ではなくて、筋(すじ)や情(じょう)を放棄しない限り、どこも立たない状況と感じていました」

ちょうど担当していた番組が終わり、『23』もリニューアルということになった真理さんは、それならば誰にも迷惑をかけず、身一つで動けるという状態になる。そして、もうひとつ退社を決意させることが。

「もっと若い後輩たちは、カレンダーの作成などを喜んでいることを知ったんです。TBSの廊下を歩いていたときに何かのパーティーの音が漏れ聞こえてきて、後輩のアナウンサーがとてもうれしそうに『カレンダーが売れるよう、よろしくお願いします!』と挨拶(あいさつ)していて。

『そっか…』と足が止まりました。バカですよね、私。画面に出ることもカレンダー撮影も業務ではあるけれど、そういう場を頂けること自体、実際にはものすごく得難いわけで。ストレートにうれしいと感じるのは、むしろ当然ですよね。

そこから巻き起こる矛盾や負の影響を数年早く経験しただけに、後輩世代が何とか同じ思いを味わわずにすむ方法はないかな…なんて悩んでたけれど、私がデスクに相談したり窮状を話したりするほどに、別の後輩たちの望みを阻むことになるかもしれないと、遅ればせながら気づいたわけです。

カレンダーでもプロモーションビデオでも、やりたい人が担当するという方法はあったのかもしれないですが、会社的にもそんなに上手(うま)く感情とニーズをマッチングできるものではないですし。だとすると余計、会社からの業務をきけない、きかない私のような社員は、身ひとつで辞めるのがベストなのかな、と感じて行動しました」

-すんなり辞められたのですか-

「いや、そこがまたズレてるというか、ダメなところで。今みたいにササッとネットで調べる時代でもまだなかったので、とりあえず退職届が必要だな、と手探りで。

『どこに出せばいいんだろう?アナウンス部長と人事部長だとすると、二つ書けば足りるかな?“一身上の都合”ってワードはマストかな?やっぱり筆文字かな?』と、ひとりでゴソゴソやってみました。

で、まずアナウンス部長に出したら驚かれつつ、それ以上に『真理、退職届は普通1通で良いんだよ!』って叱られて。

その頃の社長は、無くなった社会情報局出身の砂原社長だったのですが、辞めることが週刊誌に出たあとに社長室に呼ばれて『今の今まで知らされてなかったんだけど、ほんとに辞めるの?なんで、その前に来なかったのっ!?』と言っていただいたのですが、『えーと、社員が辞める辞めないって社長マターじゃないと思ったので、来ませんでした。すみません…』と、なんだか最後までズレてる社員でした」

1998年3月にTBSを退社した真理さんは、同年5月から久米宏さんが司会をつとめる『ニュースステーション』に出演することに。

「私が声をかけていただけるのは、元TBSアナウンサーの渡辺真理だから以外にないので、その恩恵に対しては言葉に尽くせないほど感謝しています。

『ニュースステーション』に行くことになったとき、新人時代の講師だった大先輩の宇野淑子さんと吉川美代子さんにごあいさつに行ったら、『真理ちゃん、ストレートニュースはそんなにやってないから、今からやりましょう!』と、空いているスタジオの隅でそれぞれが研修して下さったんです。

『ニュースをちゃんと読めるようになってほしい』という先輩の教えを胸に刻みつつ、もうすぐいなくなる後輩にそこまでしてくださるなんて、本当にうれしく、ありがたく感じました。だから今でも、仕事を依頼してくださった方に対してご希望以上の納品をしたい思いとともに、先輩方に対して恥ずかしくない仕事をしたいという気持ちはずっとあります」

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◆『ニュースステーション』でTBSの大先輩・久米宏さんと

-それまで久米宏さんとお仕事をされたことは?-

「一度だけTBSの特番でご一緒しているんです。久米さんが何十年ぶりかで古巣のTBSで特番をなさると大きな話題になったときに、なぜか私が組ませていただいたんです。

そして、いざ『ニュースステーション』に入るというときに『君のことは見ていたから。ところで、なんで僕のところに相談しに来なかったの?』と言われて(笑)。

『え…?ご連絡先も知りませんし、特番のときにはたくさんの人に囲まれていらしたし、そもそも大先輩に『すみません』って相談にいけないですよね?』としか答えられず。とにかく、おっしゃることがムチャクチャです(笑)」

-実際に『ニュースステーション』が始まっていかがでした?-

「TBSの大先輩でもありますから、私のなかでは師匠と弟子という感じです。ご本人は『弟子を取った覚えはない。みんなライバルだから』と、涼しげにおっしゃると思うのですけど。

『ニュースステーション』に就く前にニュースの特訓もしてくださって、なんというか、鬼のような教官で。今だから言えますけど、このときも逃げ出そうかと思った記憶が。

もちろん本当にありがたく、貴重な特訓なのですけど、テレ朝の記者で一緒に『ニュースステーション』に入った白木清かちゃんにはとても助けられました。他にもテレ朝のアナウンサーの方々は、右も左もわからない上に久米さんの特訓でゼーゼー言ってる私にとても良くしてくださって。

なんとも心もとないっていう弱点は、周囲に助けられるという最大の奇跡に化けたりするんですよね。感謝、感心してる場合じゃなくて『もっと、しっかりしろ』って話ですが。実際、足を向けて寝ることの出来ない方角ばかりなんです」

真理さんは1998年5月から2004年3月に『ニュースステーション』が終了するまで、約6年間出演。久米さんとの絶妙なコンビネーションも話題を集めた。次回後編ではご両親の介護、結婚について紹介。(津島令子)


※『低血圧なネコ カレンダー2020』
ネコと暮らしながら自然な仕草や表情を捉える写真家 山下寅彦さんの写真に渡辺真理が詩文を添える企画“web版 低血圧なネコ”がカレンダーになりました。全国の書店、文具店、amazonにて発売中!

テレ朝POST

世界で活躍する知られざる日本人を取材し、ナゼそこで働くのか、ナゼそこに住み続けるのかという理由を波瀾万丈な人生ドラマと共に紐解いていく「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」(毎週月曜夜9時)。「テレ東プラス」では、毎回放送した感動ストーリーを紹介していく。漂流物の家で暮らし、砂で体を洗う驚きのゼロ円生活放送開始以来、135カ国以上の国々を取材し、秘境や辺境で暮らす日本人を紹介してきた「ナゼそこ」。実は日本にも「ナゼそこに?」と思わずにはいられない、秘境で暮らす人々がいる。彼らが秘境に

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