小松政夫、エリート営業マンから月収7000円に!それでも、植木等さんとの日々は「夢のよう」

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「小松の親分さん」、みじめ、みじめのフレーズでおなじみの『しらけ鳥音頭』、黒ぶちメガネと上下に動く眉の小道具を用いた映画評論家・淀川長治さんのモノマネなど、数多くのギャグで知られる小松政夫さん。

俳優としてもシリアスな役柄からコメディーセンスを発揮した役柄まで演じ分け、ドラマ、映画、舞台に多数出演。一昨年はドラマ『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)、オヤジさんと呼んでいた師匠・植木等さんの付き人時代を描いたドラマ『植木等とのぼせもん』(NHK)が放送され、話題になった小松さんにインタビュー。

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◆父の死で裕福なお坊ちゃまから一転

7人兄妹の5番目として福岡県で生まれた小松さん。父は実業家で裕福な子ども時代を過ごし、友だちを集めては「マサ坊演芸会」を開き、「バナナのたたき売り」や「がまの油」の口上を披露していたという。

「家がお菓子屋だったからね。お菓子に釣られて来ていた子どもたちが多かったと思いますよ。お菓子をかっぱらってきて、それをつけてやっていましたからね。面白いかどうかというのは、全然違うものだったんじゃないですか」

-お坊ちゃまだったんですよね-

「そうです。私は(昭和)17年生まれですから、その当時は配給制でサツマイモ、じゃがいも、クジラの脂身のところとかが配給されていたんですよ。そんな時代にハムエッグとトースト、チョコレートとかを食べていたわけですから、おやじが米軍と何か関係あったのかなあ。裕福だっただけに、その反動が大きかったですね」

-お父様が亡くなったときは?-

「中学1年でした。そのときに初めてものすごい借金があることがわかって…。それでうちのおやじが建てたビルを追い出されてね。一軒家の庭付きから始まって、そこの家賃を払えなくなって、庭のない一軒家、それからまたちょっと小さくなって一軒家という感じで住む家がどんどん小さくなっていきました。

最後には7人が、六畳と四畳半2間で共同トイレと共同炊事場のところになってね。その時が1番つらかったですね。私も高校生になっていましたから青春の多感なときでね。6畳一間でみんな着替えなきゃいけないわけですよ。こっちが目のやり場がないっていうかね。グレなくてよかったですよ。

家出してやろうと思ったりなんかしたけど、家のために働かなきゃいけないっていうので、いまだにお付き合いをさせていただいているお菓子屋さんで働きましたね。もう60年も前の話ですけど」

-家計を支えるためにいろいろ働いていたそうですね-

「そうですよ。だけど苦労を苦労と全然思ってないですからね。今まで生きてきて。ギャグでは『もういや、こんな生活』ってよく言うんですけど、実際は全くなかった。今、77歳ですけど、『何の苦労があったんだろう?』って感じですね」

※小松政夫プロフィル
1942年1月10日生まれ。福岡県出身。1961年、高校卒業後、俳優を目指して上京。さまざまなアルバイトを経て、横浜の自動車販売会社のトップセールスマンになる。1964年、約600人の応募者のなかから選ばれて植木等の付き人兼運転手に。『しゃぼん玉ホリデー』(日本テレビ系)でコメディアンデビュー。伊東四朗とのコンビ芸で『しらけ鳥音頭』『電線音頭』など数々のヒット曲やギャグを生み出し、俳優としてもテレビ、映画、舞台に多数出演。名バイプレーヤーとして活躍している。

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◆19歳で社長の娘に見初められ…

1961年、高校を卒業した小松さんは俳優を目指し、一番年上の兄を頼って上京し横浜に。いくつか劇団を受験し、俳優座に合格するが、入学金と月謝が高額だったため断念。生花店、印章店、ケーキ店、事務機器のセールスマンなどさまざまなアルバイトを経験したという。

「ハンコ屋さんで働いたときは、ゴム印の注文を取って来て、職人さんが彫ったハンコを配達するというのが私の仕事だったんだけど、職人さんがやっているのを見て、やってみたらできちゃったんですよ。それを社長が見ていて『配達に行かなくていいからハンコを作れ』って」

-すごいですね。いきなり職人さんの仲間入りですか-

「そう。でも、その社長に娘がいてね。大変失礼だけど、お相撲さんみたいなあんこ型で丸々と太っていて、眉毛が太くて三つ編みをしているその娘が社員食堂を仕切っているんですよ。

その娘がいつも私にだけおかずをおまけしてくれて、『博多弁で好きって何て言うの?』って聞くから『好(す)いとーですかね』って言ったら、毎日耳元で『好いとー、好いとー』って言うわけですよ。『ああ、これはもうここにはいられないなあ』って(笑)」

-そのときはいくつだったんですか-

「19歳でした。そのうち社長に『娘が君にほれ込んでいるから結婚しないかね。会社を持たせるから、うちを継いでくれ』って言われて辞めました。『私には大望がありまして、お金をためたら世界各国を巡って見聞を広める。そういう青年になりたい』って言って(笑)。そういうことで辞めたのが、いくつかありましたね」

ケーキ店では見よう見まねでバラの花のデコレーションができるようになり、配達員のはずがケーキ職人として働くことに。

-なんでもできてしまうんですね-

「そうそう。私はだいたいそういうのは器用でしたね。やってみたらハンコも作れるし、ケーキ職人みたいなこともできたからね。花屋でも働きましたけど、ゴムで一束にして、リヤカーに積んだ缶に入れて単価を決めるんですよ。

菊は1本10円としましょうか。これがすでに5割くらいもうかる値段ですよ。仕入れ値は5円くらいですから。それを10円で売れと言われたんですけど、私は15円で売るわけですからね。社長は大喜びですよ。

花の名前も知らないから『このバラはいくら?』って聞かれると、『ちょっと今忙しいからお手にとって見せてください』ってウソばっかり言って。それでお客さんがバラを手にとると『これがバラなんだ』ってわかる。素人ですからね(笑)」

売り上げも上々で生花店の社長に気に入られ、支店をまかせるという話になったという。しかし、支店の完成直前、社長の長男が交通事故で亡くなり、そのショックで社長が廃業。小松さんは生花店を辞めることになる。

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◆コピー機を売りに行ってヘッドハンティング

その後もアルバイトを転々とした小松さんは1962年、事務機器の販売の仕事につき、持ち前の“トーク”とアイデアでコピー機を販売する優秀なセールスマンになる。そしてあるとき、横浜の自動車販売会社にコピー機のセールスに行った小松さんは、そこで車のセールスマンにスカウトされた。

「話がうまかったっていうかね(笑)。どんなセールスをやっていたかというと、女性社員を12人ぐらい集めて、お昼になると、『どうぞどうぞ、お昼食べてください。私がお茶入れますから』と言って、給湯室に行くと湯のみ茶わんが色々と置いてあるじゃないですか。

それにどんどんお茶を入れて『はい、どうぞ』って言うと、『それ山本さんのよ』とかって言われて、そうすると『あっ、山本さんね。山本さんってどなた?』『はい、山本です』『山本、山本、インプット!』って(笑)。

そんな感じで次々に『インプット!』ってやっていって、その日のうちに名前を全部覚えちゃうの。それで名前を呼ぶから、みんな親近感というか、そんなものがあったんじゃないですか。だからそれがやっぱり上手な生き方だったと思いますよ(笑)」

-その様子を見ていた上司にスカウトされたわけですか-

「そう。そこの34歳の営業部長に見込まれたわけですよ。そのとき、総務課の課長が50歳ですからね。それが34歳で営業部長ですから、やり手ですよ。その人が私を引っこ抜いたわけですから、その機転もすごかった。

私はトップセールスマンになりましたからね。昭和37~38年で、ラーメンが1杯40円、サラリーマンの平均年収が約45万円の時代に、私の月給が10万円以上ありましたからね」

-すごいですね。その頃、俳優になるという夢は?-

「もう諦めて、がむしゃらに働いていました。その頃、植木等がスーダラ節で大ヒットしていた時代で大好きでね、植木の映画を色々見ました。

まだカラーテレビが普通の家になかった時代でしたけど、ビアホールに24インチ位のテレビがあったんですよ。だから日曜日にそのビアホールに行って、午後6時から『てなもんや三度笠』、6時半から『シャボン玉ホリデー』。

この2本は絶対に見逃せないので、大枚1万円ぐらい払って見せてもらっていました。1万円といえば、その当時は大学出の初任給をポンともらっているようなもんですからね。『どうぞどうぞ』って言われて見せてもらっていました。唯一の息抜きでしたね」

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◆月収15万円のトップセールスマンから月収7000円で植木等の付き人に

いつもの日曜日と同じようにビアホールで、『てなもんや三度笠』と『シャボン玉ホリデー』を見ていた小松さんは、誰かが忘れて行った芸能週刊誌に気づく。その週刊誌には小松さんの人生を変える運命の広告が掲載されていた。

「芸能界なんて諦めていたのに、『植木等の付き人兼運転手募集!やる気があるんだったら面倒みるヨ~~』って書かれていてね。これだと思っちゃったんですよ。

それこそ大草原のなかで四つ葉のクローバーが『おいでおいで』をしているみたいな感じ。それからもうたまらなくなって履歴書の締め切りが書いてあるんだけど、それを間に合わせようと思って、毎日そわそわして仕事どころじゃない(笑)。それに私を引き抜いてくれた部長にどう言おうかということもあるわけでね」

-トップセールスマンですものね-

「最初はビックリしていました。トップセールスマンに育てたのがいなくなっちゃうわけですから、月に10台は売り上げが減ってしまいますからね。でも、『そっちのほうが向いているかもしれない』って背中を押してくれました」

-応募者は600人もいたそうですね-

「そうです。私は仕事で2時間遅れて行ったんです。今の時代だとニートと呼ばれているような人とか、楽器をちょっといじっているやつとか、そういうあんちゃんが、頭ボサボサで膝がやぶけたジーンズ履いているような連中が来ているなかで、私だけパリっとしているわけですよ。

履歴書に写真も貼って出していますからね。毎日365日床屋に毎朝行ってセットしてもらって、顔をそって、超一流の仕立ておろしのスーツを着て、靴もあつらえたのを履いている。

だからもう早いうちに決まっていたんじゃないかな。面接は5分もかかりませんでした。私は何か試験があると思っていたんですよ。だからタイツとか、色々な小道具も持っていっちゃったくらいですからね。何か芸をやるんだと思って(笑)。何のことはない。向こうはただ運転手が欲しかっただけだったんですよ」

-車の運転も確かですし、見かけもきちんとしているのだから決まりですよね-

「そういうことですよ。それは汚いやつより清潔なほうがいいに決まっているしね。天下の植木等ですもん。だから植木が1番驚いたんじゃないですか。

病気上がりでからだも疲れているし、運転手を雇ってくれって渡辺プロに言って、募集したら600人もの人間が集まってね。それで私の経歴を見て『なんでこいつがくるんだろう?』と思っちゃったんじゃないですか(笑)」

-初めて植木さんにお会いしたときはいかがでした?-

「それはもう雲の上の人でしたね。私はそれまではすごい弁護士さんとかお医者さんとかいろんな人と仕事してきているわけですよ。どんなに偉い人に会ってもビクともしなかったんですけれども、植木等と会ったときは、もう神様に会うようなものですからね。もうしどろもどろでした。

向こうは『松崎(本名)君ですか。植木です。よろしくね』って、全然ちゃかしたりしないで低いトーンでね。『車のセールスマンをやって優秀だと書いてあるけど、なんで私のところにきたんだね?』って聞かれたので、『今やっている仕事と植木等先生と』って答え始めたら『先生って言うな!』って言われてね。『どっちがいいかっていったらこっちがいいと思って』って言ったんですよ。

そしたら『俺もな、お坊さんになるかミュージシャンになるかって色々考えたとき、どっちがいいかっていったら、こっちがいいから、こっちに入ったんだ。同じだなあ』って、そんな話をしていました。

それで『さっき先生と言ったけどな、ああいう呼び方はやめてくれ。君はお父さんを早くに亡くされたそうだから、私のことをオヤジと思えばいい』と言ってくれたんですよ。だから『オヤジさんと呼んでいいですか?』って聞いたら、『おお、それでいこう』って(笑)。そのときに面談が終わって初めて植木等がおなじみのポーズ、『はい、それまでよ』の格好(ポーズ)になったんですよ(笑)」

月収10万円以上のトップセールスマンから植木等さんの付き人兼運転手に転身。月収は大幅ダウンの7000円になったが、大好きな植木さんと過ごした日々は夢のようだったという。次回は植木等さんとの強い絆、師弟愛、コメディアン・小松政夫の誕生を紹介。(津島令子)

※『ひょうげもん』(3月7日発売)
小松政夫・著(さくら舎・刊)
独自の芸で現在も笑わせ続けているコメディアン小松政夫の一代記。

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