キャシー中島、杉田かおるから“演技下手”と言われ女優断念も「感謝している」

公開: 更新: テレ朝POST

©テレビ朝日

1960年代後半からモデルとして活躍し、数々のCMに出演後、『ぎんざNOW!』(TBS系)で初代アシスタントにばってきされ、タレントに転身したキャシー中島さん。

79年に俳優の勝野洋さんと結婚。おしどり夫婦として知られ、2女1男を出産。7年間の専業主婦生活を経て、タレント活動を再開。これまでに著書65冊を出版し、全国に千人以上の弟子を持つパッチワーク・キルトの第一人者としてもマルチな才能を発揮している。

公私ともに順風満帆だったが、2009年に長女の七奈美さんが肺がんで29歳の若さで亡くなるという悲劇に見舞われる。さらに16年には自身も皮膚がんの手術を行った。どんなにつらいことがあっても前向きに生きようと明るい笑顔を絶やさないキャシーさんにインタビュー。

20代

◆下剤がお友だち、20kg減量してモデルに

アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたキャシーさん。5歳のときに両親が離婚し、母と2人の生活を送ることに。小学生のときの夢は手芸屋さん。母が仕事で留守がちだったため、キャシーさんは小さな布を切って貼って集めたり、針で縫ったりしてひとり遊びをしていたという。

だが、中学生になって反抗期を迎える。学校から帰宅後、着替えて外出し、夜12時まで遊んだりしていたという。

-小さいときからかなり目立っていたでしょうね-

「かわいかったですからね(笑)。昔から太っていて、からだもすごく大きかったから目立ちました。ただ、母親が強く育ててくれたんですよ。だからハーフということに関しての卑屈さは何もなかったですね。良いところを2つの国からもらっていると思っていましたから」

-最初にスカウトされたのはいくつのときですか-

「15歳のときです。堀切ミロさんという有名なスタイリストで、プロデュースをしている方に中学の卒業式が終わって高校に行くまでの間にスカウトされたんです。横浜の本牧でね。不良だったからよく踊りに行っていたんだけど、そのときに『ちょっと撮影させてくれないかなぁ』っていう感じからスタートして」

-モデルになるために、かなりダイエットされたそうですね-

「すごいしました。15のときにスカウトされて16でモデルの仕事をするようになるまでに72キロぐらいあったのを50kgまで落としたんですから、20キロぐらいダイエットしました。

ひたすら物を食べないで、下剤を飲んでいるというむちゃなダイエット。よく体を壊さなかったなぁって自分でも思います。若かったからね(笑)。それと、丈夫なからだを親からもらったので大丈夫だったんですね」

-モデルの仕事を始めたのは経済的にお母様を助けるためだったそうですね-

「そうです。お店をやって育ててくれたんですけれども、大変なのはわかっていたので。私は忘れていたんだけど、最初にミロさんに『いくらお金もらえるんですか』って聞いたっていうからほんとすごいよね(笑)。ずいぶん経ってから言われたんだけど『私ビックリしたわ。15歳の子にいくらもらえるんですかって言われるとは思わなかった』って(笑)。

そのとき、堀切ミロさんに『月3万円ぐらいになる』って言われたんですよ。当時は大卒の初任給が1万円ちょっとぐらいだったから、すごいと思って、どうすれば良いか聞いたの。そしたら『顔は奇麗なんだけどさ、痩せてくれなきゃ使えないわ』って言われたから『じゃあ痩せます』って宣言して、3、4カ月で20kg落としたの」

-実際にモデルになっていかがでしたか-

「最初はなかなか仕事が来なくて事務所の電話番なんかをやっていたんですよ。それで『誰でもいいから誰かいない?』っていう電話がかかってくると、『良い子が入りましたよ。キャシー中島っていうんですけど』って、自分で売り込んで仕事を取っていたんですけど、それが面白かった。

自分で自分を売り込んで仕事場に行って、メインのモデルの後ろとかにいるんだけれども、このメインの子よりも可愛く映りたいとか、いつも目標があって、そこに向かっていくというタイプだったのでね。

それは親の考えもすごくあったんですよ、前向きにというのは。いつかメインのポジションになるように頑張ろうというのは、ある意味ゲームみたいでしたね」

-自己プロデュース能力が昔からあったんですね-

「そうね。そのときからあったと思います。だから、誰でもいいという仕事がどんどん来るじゃないですか。そうすると、見ている人は『なんかこの子よく見るよね』っていうことになって、そうすると、もっと前で使おうかってことになるんですよね。

だから入って1年目には、マドモアゼルモデルグループというところのトップモデルになったんですよ。パンフレットの1番頭にくるのがトップなんですけれども、そうなったの。

最初に入ったときには先輩がたくさんいて、『あなた大きいわね』とか『そんなんでモデルなの?』とか、ずいぶん言われていたんですよ。痩せても50kgじゃダメなのよ(笑)。ガリガリじゃないとね。ツイッギーの時代だから。それでも明るさとか、私にしかできないものとかやっていこうと思ったので、それで丸一年かけてトップになったときはすごくうれしかったですね」

※キャシー中島プロフィール
1952年2月6日生まれ。ハワイ・マウイ島出身。
1969年、レナウンのCMでデビュー。ボーカルグループ「カサノバセッテ」に参加。数々のCM、雑誌に出演後、『ぎんざNOW!』の初代アシスタントに抜擢。ドラマ『雑居時代』(日本テレビ系)、『プレイガールQ』(テレビ東京)に出演。1972年、俳優・勝野洋さんと結婚。『独占!女の60分』(テレビ朝日系)、『ライオンのいただきます』(フジテレビ系)などでも活躍。また、パッチワーク作家として創作や指導にあたっている。

©テレビ朝日

◆トップモデルになったが限界を感じてタレントに転身

17歳でトップモデルとなったキャシーさんだが、モデルとしての限界も感じ始めるようになったという。

「2年間そこで仕事をして、限界を感じちゃったのね。もうどんどん新しい人が出てくるし、スタイルもいいし、可愛い子が出てくるから、これはもうダメだなって(笑)。身長も165cmで止まっちゃったしね」

-嫌がらせや意地悪をされたりということはなかったんですか?-

「根が強い方だし、もともと不良だからみんな結構怖がっていたので、そんなにはなかったんだけど、最初の頃はやっぱり色々ありました。化粧する場所の順番とかもわからないから奥を使っていたら、先輩のモデルに『あんた何やってんの』って怒られたりとか。それで端でやればいいんだってわかったり…。

あと、靴なんかもちゃんとそろえて置いておいたのに、隠されたりとかね。それはね、いつもあること。それはみんなあるの。私は山本寛斎さんのショーで、靴がなくてどうしようと思ったんですけど、『そうだ。裸足で出て行って、飛び跳ねてやろう』と思って。

ジーンズで本当はブーツを履くことになっていたんだけど、裸足で飛び跳ねて出て行ったの。みんなは笑わないでやっているのに、私だけケラケラ笑いながら飛び跳ねてやったんですよ。そしたらやっぱり結構目立ったみたいでね(笑)」

-強いですね-

「そうね。いまだに強いですよね、そういう意味では。メンタル的なところは。いじめがいがあると、もっといじめられたりするだろうけど、私の場合はいじめがいがないじゃないですか。やられてもそれを利用してもっと目立つことをしちゃうんだから(笑)。

私が裸足で飛び跳ねた後から、皆さんニコニコ笑ってちょっと飛び跳ねたりするポーズをとるようになりましたからね。しょうがなくてやったことが結果的には大成功よね(笑)」

-対応能力がすごく高いですね-

「やっぱり小さい頃からこういう顔つきとかで、日本のかわいい子たちの中にポンと入って、『この子、違うよね』って言われる場所にいる私を『あなたはみんなと違って当たり前。そこがいいところなんだから』っていう母に育てられましたからね。『私は私なの』っていうのがずっと変わらずにあるので。明るいのが1番だと思うしね」

-それでごく自然にタレントさんに移行して-

「浅井慎平さんとか、カメラマンの有名な方々が『キャシーはしゃべりが面白いんだから、そういう仕事をしたら?』って言われて、『ぎんざNOW!』でタレントデビューしたんですけどね。

当時TBSがすごく良くてね。せんだみつおさんと私と双子のモデルの子が一緒に出ていたんですけど、夏に決まって10月からだけど、9月の1カ月間TBSの社内だけに流すプレゼンテーションみたいな番組を毎日ちゃんとゲストも呼んでやらせてくれたんですよ。

最初はね、もう言葉が出てこないし、自分の声も『こんな鼻声?』って感じでね(笑)。でも、1カ月間の社内放送の経験があるから、番組が始まったときには自分の中でも度胸がついていますよね」

こうして始まった『ぎんざNOW!』は人気番組となり、キャシーさんの評判も日に日に上がっていったが、番組がスタートして3カ月後、キャシーさんは降板することに。

「大きなシャンプーのコマーシャルが決まっちゃって、半年ぐらい外国に撮影で行くというんですよ。この仕事とどっちってなったときに、私はやっぱりモデル気質が抜けていないので、『シャンプーのコマーシャルがやりたいからやめます』ってプロデューサーに言ったら驚かれましたけど、許してくれたんですよね」

-それで戻ってきてまたお仕事をされるんですよね-

「そうです。撮影が終わって半年後に戻って来て、そのプロデューサーに『やっぱり仕事やります』って言ったら、新しく始まる夜の番組『ぎんざナイトナイト』に起用してくれたので、21歳のときにその番組のアシスタントをやったんですよ。今だったら出入り禁止になっていてもおかしくないですよね(笑)。

46年前の話で、みんながタレントを育てようとしてくれた時代だったのね。プロデューサーも『せっかくここまで育ててきたんだから、コマーシャルにいっぱい出れば名前も人気も出るでしょう。その上で大人の番組に切り替えた方が“ぎんざNOW!”よりもキャシーには合っている』って考えてくれたんです。

それにハーフのタレントがそんなにいなかったですしね。今みたいにたくさんの人がテレビに出たいという時代ではなかったので。やっぱり昭和の良き場所だったんですね」

©テレビ朝日

◆子役時代の杉田かおるさんの一言で女優活動を断念

やがて売れっ子タレントになったキャシーさんにドラマ出演のオファーが舞い込む。そして初めて出演したドラマ『雑居時代』(日本テレビ系)で天才子役・杉田かおるさんと共演したキャシーさんは、衝撃的なことを言われる。

「『お姉ちゃん演技が下手ね。もう女優やめたら?』って言われてね。別に女優やらなくてもいいやと思ったから『うん、そうするね』って言って、女優の仕事一切しなかったんですけど、『プレイガールQ』という東映の番組からオファーがあったんですよね。

そのときに『私は芝居できません』って言ったんですよ。そしたら『キャシーのままでいいから』って言われたので、『私のままで良いんだったらやります』と言って、2年ぐらいやりました」

-杉田さんはまだ子役でしたが、言われたときにはどう思いました?-

「『この子しっかりしてるなぁ』と思った。それはそうだよね。私もコマーシャルの中のお芝居しかやっていないので、お芝居で自分を捨てた父親に会うって言ったって泣けないし、『きれいな夕焼け』って言ったって夕焼けも見えないし(笑)。突っ張っている部分もあったので、別にいいやと思った。自分でも無理だろうなと思っていましたしね。

当時人気だったのは『だいこんの花』とか、ホームドラマだったんですよ。『そこに私が出て行ってどうするの?』っていう気持ちもあったので、向かないだろうなぁって。だから、ドラマのお話はたくさんいただいたんですけど、『向いていないから』って、1つずつ丁寧にお断りしました」

-その後、杉田さんとはお話されました?-

「彼女も気にしていたみたいで、かなり経って再会したときに『ごめんなさい』って謝ってくれました。だから『女優は断念したけれど、別の世界で成功したからいいの』って言ったの(笑)。自分でも女優は向かないと思っていたし、あのまま続けていたら結婚が遅くなっていたかもしれないしね。私にとってはいいことを言ってくれたと感謝しているくらい(笑)」

女優業は断念したものの、タレントとして才能を発揮。スタジオからスタジオに飛び回っていたモデル時代に比べるとタレント活動を始めてから空き時間ができるようになったというキャシーさんは、パッチワークキルトを始めるようになる。もともと手先が器用で手芸が好きだったこともあり、腕前はどんどん上達していく。

そして26歳のとき、勝野洋さんと運命の出会いをする…。次回は勝野さんとの出会い、結婚について紹介。(津島令子)

※DeAGOSTINI隔週刊
「キャシーといっしょに ハワイアンキルト」創刊号特別価格:499円 発売中

※「ハワイの花を描く~キャシー中島のステンドグラスキルト」(ひとみ出版刊)定価¥1600(+税)発売中

※「第18回東京国際キルトフェスティバル 布と針と糸の祭典
1月24日(木)~30日(水)東京ドーム

PICK UP