仲雅美、トップスター生活から一転。事業失敗で3億円の借金を抱えて離婚「何もなくなってしまった」

公開: 更新: テレ朝POST

1971年、木下恵介・人間の歌シリーズ『冬の雲』(TBS系)と『ポーリュシカ・ポーレ』の大ヒットで一躍若手トップスターとして注目を集めた仲雅美さん。

甘いマスクと歌声で同年のブロマイド年間売上げベスト10入りするほど人気を集め、『さぼてんとマシュマロ』(日本テレビ系)の劇中でも披露した曲『涙のジャーニー』もヒットを記録。『刑事くん』(TBS系)、『家光が行く』(日本テレビ系)など次々とドラマに出演。アイドル的な人気を博していく。

22歳

上村一夫さんの人気原作劇画『同棲時代』でスクリーンデビュー

1973年には、70年代に大ブームを巻き起こした上村一夫さんの人気劇画映画『同棲時代-今日子と次郎-』(山根成之監督)に出演。由美かおるさんを相手に、同棲生活でお互いに傷つけ合いながらも自分たちの愛のかたちを求めて行こうとするイラストレーターの次郎を演じて話題に。

「僕は上村一夫さんのファンだったので、その話が来たときに、相手役が誰かも聞かずに『出る!出る!』って言ったの。『同棲時代の次郎だけど』って言われて。劇画を読んでいて好きだったからね」

-実際に上村一夫さんの作品に出演されていかがでした?-

「やっぱりすごいですよ。劇画というか、絵のタッチが。二人がキスしているところなんかでも、一筆描きで互いが同化して一つになっていくように描いちゃうんだから。映画ではそうはいかないけどね(笑)」

-次郎さんは結構自分勝手な男でしたね。妊娠したと知らされたときも、自分は海外にも行きたいし、やりたいこともあるのに足かせになるみたいな言い方で-

「僕は悪い奴だと思ったよ。だけど、それまでの僕は、どうしてものっぺり二枚目みたいな感じの役が多かったでしょう? それに映画もはじめてで興味があったのと、上村一夫さんということで、やっぱり自分の殻を破っていくのにちょうど良いんじゃないかと思ったんだよね。それで、そのあとで相手役が由美かおるさんだって聞いたの」

-由美かおるさんとは『しなの川』(野村芳太郎監督)でも共演されていましたね-

「それも原作は上村一夫さんの劇画だったんだよね。『同棲時代』の2作目は、僕は断ったけど、その後『同棲時代-今日子と次郎-』の監督に頼まれたのは『愛と誠』。『何で僕が岩清水弘なの?』って(笑)」

-岩清水くんのセリフは流行語になりましたね-

「『早乙女愛よ、岩清水弘は君のためなら死ねる』がね(笑)。僕はそういうことを言わない人なのに」

-ワイルドな太賀誠と秀才でおとなしいけど熱い思いを秘めている岩清水くん。対照的でしたね。撮影で印象に残っていることは?-

「太賀誠との決闘シーンがあるでしょう? グラウンドの真ん中にナイフを上向きに突き立てて、大河誠と後ろ向きに歩いていって、振り返らずにナイフの近くまでいって後ろ向きに倒れるというシーン。振り返らずに倒れて、ナイフに近かったほうが勝ちなんだけど、あれは本当にやったんだよね。

後ろ向きに歩いていって、そのまま後ろに倒れるの。危ないよ。振り返って見たりしたら、映像的におかしいじゃない? だから棒立ちのままドスンと後ろに倒れたんだから」

-ちょっと間違えたら後頭部を地面に強打してしまいますね-

「そう。だから倒れ込むときにちょっとは頭を持ち上げるけど、後ろを見ないまま倒れるから危なかった。スタントマンを立てないんだから、『スタッフ連中は何を考えているんだ?』って思ったよ」

-あのシーンは1回でOKになったのですか-

「そうだったと思う。救われたのは、コンクリートじゃなくて土のグラウンドだったこと」

-完成した作品をご覧になっていかがでした?-

「評判としては悪くなかったから、それだったらいいのかなって(笑)」

 

◆舞台、創作舞踊、そして花登筐さんが主宰する劇団へ

ドラマ、映画、歌番組、バラエティ番組と超多忙な日々を送っていた仲さんだったが、舞台がやりたいという思いも強かったという。

「僕はどちらかというと、歌もまあ売れているけど、ドラマが先行しての結果なんだと。だから、お芝居もやりたいし、どちらかというと日本舞踊の舞台もやりたいんだと。

だから舞台のことをやるとしたら、今度はペーペーだから、テレビや映画より当然ギャラが安くなるでしょう? そうすると、事務所としては映像の方がギャラが高いわけだから、値段の高い順に話してくるわけ。ギャラが安いから、舞台の話というのは入ってこないんだよね。ちょっと違うんじゃないかと感じて事務所を辞めて、それから2、3年は舞台を中心に活動していました。

この間亡くなってしまったけど、坂田藤十郎(当時:中村扇雀)さんや林与一さんたちと創作舞踊とかをご一緒させていただいていたんですよね。朝丘雪路さんのところは芝居+踊りをメインにしていて、芸術祭とかそういうのに出たりしてね。だから、僕は俳優としては出たことがないんだけど、踊りのみでは『日生劇場』とかに出ているの」

1975年、25歳のときに仲さんは花登筐さんが主宰する「劇団喜劇」に入り、7年間所属することに。

「若かったこともあるしね。何にも引き出しが詰まっていかないのに、年を取っていっちゃうみたいな感じがすごくいやで。ある程度年をとっても、やれるのは舞台だろうなと。日本舞踊がそうなんだけど、年相応の演目があるのよ。そういう世界ってすごいでしょう?」

-そうですね。花登さんの劇団に入られたときにはすでに売れていたわけですが、劇団員の方から嫉妬されたりすることは?-

「そういうことはあった。長くいる方とかは、マスコミで売れているとしても、例えばプログラム一つにしても、看板の名前順にしても、『何であいつがあそこにいるんだよ』というのはあるよね。でも、そういうのはしょうがないっていうかさ(笑)」

-直接嫌がらせとかいじめなどは?-

「それはない。ワンマンというわけでもないんだけど、要するに花登筐という主宰者が強かったからね」

-花登さんもかなり個性的な方だったと聞いていますが、いかがでした?-

「僕は好き。可愛がられたしね。花登先生は僕に『俺の若い頃を見ているようだ』って、よく言っていたんですよ。だから『僕は年を取ったらこうなっちゃうのかよ』って思ったけどね(笑)」

-ご結婚されたのはちょうどその頃ですか?-

「そう。だから花登先生からは出産祝いもいただいたし、娘を連れて行って抱っこもしてもらいましたよ」

花登さんの劇団に所属していた間は「仲真貴」という芸名に改名。『あかんたれ』(フジテレビ系)、『続あかんたれ』(フジテレビ系)、連続テレビ小説『鮎のうた』(NHK)など多くの花登作品に出演。

MIMIビデオ時代

◆舞台でのケガがきっかけで会社経営、3億円の借金を抱えることに

花登さんの劇団に7年間在籍して離れた後、「仲真貴」から「仲雅美」に再改名。そして舞台『人間万事塞翁が丙午』に出演していた仲さんは、腰を傷めて思うように仕事ができなくなってしまったという。

「弁当屋の話で、僕は板前頭の役。1番太っている板前がふぐにあたったというので、『俺が背負っていってやらあ』って言って、その太った板前を1番細い僕が背負って花道を引っ込んでいくというのが演出(津川雅彦)だったわけ。おかしいってなるじゃない? それを毎日やっているうちに響いてきちゃってね。

要するに支え切れなくて、かかとから崩れちゃう。骨が歪んじゃったみたいな形だと思うんだけど、そういうこともあって、芸能の仕事はちょっと難しいかなと。

それにやっぱり子どもだね。結婚して娘ができて、小学校に上がる頃には収入が安定した生活を考えざるを得ない。それと、おふくろが再婚後に授(さず)かった11歳下の妹が中学生のとき、おふくろががんになって放射線治療を受けることになって。

それで治療が一段落したとき、妹と2人で香港旅行に行かせたんだけど、香港でいい洋服の素材を見つけたから、向こうで加工・縫製して日本で売るために会社を作りたいと言うから貿易会社『MIMI(ミミ)』を作ったの」

-お母さまと妹さんのために会社を作ったわけですか-

「最初はね」

-それが変わったのは?-

「昔、横浜で火事になった中華料理屋をやっていたときに北海道から上京してきた叔父さん、おふくろの異母弟がいるわけ。おふくろを頼って住み込みで来ていたんだよね。その叔父さんが、大分でレンタルビデオ店をやっていたの。

すごい過渡期の時代だったんだよね。平気で『おしん』をダビングしたのを勝手に貸し出して商売しちゃっていた違法レンタルビデオ店もあったりしたから、正規店という枠で商売しなさいという過渡期だったわけ。

それで、メーカー側が、貸し出してもいいという許可を出した商品と、貸し出してはダメな商品、いわゆるセルオンリーの商品を分けるようになったんだけど、叔父さんはこういうのをアメリカはもっとフリーに扱えるシステムがあるはずだから、協力してくれないかって話を持ちかけてきたわけ。

僕も作品を見たりするのは嫌いなことじゃないし、全世界で結構名前は知られているんだけど日本で公開されていない作品だとか、そういうものが結構あるし、ビデオだけのことを考えればある程度いけるんじゃないかと思ったんだよね。

それで、為替業務に長けているおふくろと叔父も入れて、『MIMI』で映画版権を買いつけることに」

-日本で未公開の海外の作品だと、日本語字幕を付ける作業から全てやらなきゃいけないということですよね-

「そう。フィルムで来るものもあれば、テレビ用にと1インチ(VTR)の形で素材が送られてくることもある。日本語バージョンとしては、台本に沿って割り振って、そのころテレシネといったって、写植だよ。タイムコードに合わせて字幕を入れていくみたいな感じで」

-最初はかなりいい感じだったそうですね-

「いい感じだった。1983年に『MIMIビデオ』を立ち上げて100本以上出したからね。自社の工場を持って、在庫を少なくしていかないと苦しいわけ。タイトルをもっていればもっているで、経費がかかるから相当きつい。

工場に1インチの機材も入れたし、ダビングする機材も、VHS、ベータ、8ミリにも対応する形をとっていたんですよ。だけど、そのソフトが替わるという段階で、レンタル店はビデオテープを買い控えるでしょう? そういう時代が続いて、やっぱりビデオテープでは売れない。それにいろんなことが重なって。バブルの崩壊もあったし」

-設備投資もかなり費用がかかったのでは?-

「かなりかかった。それでもう新規に工場などの設備投資はできない。設備投資したらまたすごいことになっちゃうから。

それとビデオ流通産業参入に関し、新規参入のことだから、知っている会社が結構バックアップしてくれていたの。だから協賛してくれた企業へのロイヤルティバックなどはしていかないとしょうがないわけ。

だけど、テープは売れない、DVDにするにも機材やなんかを買いそろえたりすると資本がかかりすぎるし、回収できるのかわからない。だから最後の方は、協賛してくれたところのフォローをしていくだけの期間が増えて、休業状態。結局妻とも離婚することになって、娘とも別々に暮らすことに。

マンションなどの不動産を担保に入れて受けられるはずだった融資の枠も打ち切られ、3億ぐらいの借金を抱えることになって、不動産を処分するしかなくなったんだよね。

結局、マンション3つとレンタルビデオ店が2つ、工場、機材一式。それを処分して、借金をツーペイ(プラスマイナスゼロ)にしたんだけど、そのかわり何もなくなってしまった」

家も土地もすべて処分し、3億円あまりの借金を精算した仲さんだったが、からだはすでにボロボロ状態。借金の精算のメドが立って間もなく、予期せぬ事態が勃発し、仲さんは「余命2日」を宣告されることに…。

次回後編では、「余命2日」から奇跡の生還、交通誘導警備の仕事と芸能界復帰、小倉一郎さん、三ツ木清隆さん、江藤潤さんとの音楽ユニット「フォネオリゾーン」、YouTubeチャンネルなどのネット活動も紹介。(津島令子)

※『リモートクイズQQQのQ

※フォネオリゾーン『クゥタビレモーケ』
CD、配信で発売中!

PICK UP