70年代、ロシア民謡を歌い若手スターに。仲雅美、11歳での劇団入りは「母の店の全焼による口減らし」

公開: 更新: テレ朝POST

1971年、木下恵介・人間の歌シリーズ『冬の雲』(TBS系)で俳優デビューし、ドラマの挿入歌だったロシア民謡『ポーリュシカ・ポーレ』を歌い大ヒットを記録した仲雅美さん。

甘いマスクと歌声で同年のブロマイド年間売上げベスト10入りするほど人気を集め、主演時代劇『家光が行く』(日本テレビ系)、映画『同棲時代-今日子と次郎-』(山根成之監督)、映画『愛と誠』(山根成之監督)など多くのドラマ、映画に出演。その後、舞台でのケガがきっかけで事業に乗り出し、芸能界を離れて専念。一時は成功をおさめるも、多額の借金を抱えることになり、借金は完済するが離婚や大病を経験。

現在は交通警備員の仕事をしながら芸能活動を再開。2019年には小倉一郎さん、三ツ木清隆さん、江藤潤さんと4人組音楽ユニット「フォネオリゾーン」を結成。『クゥタビレモーケ』をリリースしたことも話題を集めた仲雅美さんにインタビュー。

21歳

◆日露戦争で従軍看護師だった曾祖母に育てられ…

仲さんが物心ついたときにはすでに両親が離婚していて、父親の記憶はなく、母親と2歳下の妹、曾祖母と暮らしていたという。

「生まれたのは鷺宮(東京・中野区)だけど、物心ついた頃から小学校6年のはじめぐらいまでは横浜で暮らしていました。おふくろがいろいろな仕事をやっていて忙しかったから、僕と妹の世話をしてくれたのは、おふくろの祖母。僕にとってはひいおばあちゃん。

このひいおばあちゃんは、日露戦争に従軍看護師として行った人なわけ。うちの家系はどちらかというと武闘系だったんだよね。それで、ひいおばあちゃんの息子は剣道とか武道をいろいろやっていて天覧試合にも出たような人だったの。自分も日露戦争で戦場に行って、武闘系の人に限って前線に送り出されて次々に死んでいくのを見たものだから、僕には武力的なことではなく、踊り(日舞)を習ってくれと言ったの」

―踊りを言われたときはどう思われました?-

「それが小学校に上がるくらいのときだったんだけど、ひいおばあちゃんはすごく強いの。口答えをしようものなら、押し入れに閉じ込められちゃうんだから、言うことを聞くしかないよね(笑)。

ひいおばあちゃんは、留守がちでいないおふくろの代わりに炊事や洗濯も全部やってくれていたし、頼まれたことなんてそのこと(踊り)しかないんだから、聞かざるを得ないでしょう?

ひいおばあちゃんは大川橋蔵さんが大好きで、立ち回りなどの基礎になるのは踊りだから、動きの練習として踊りを習ってくれと」

―日舞のお稽古はいかがでした?-

「最初に行ったところは、お商売という感じだったから辞めて、次に行ったのが、藤間流の流れの七扇流の先生のところに行くことになって。

そこは口三味線でとか、三味線を弾いて教えてくれるんだけど、手先がそろってなかったりすると、初対面のときから『汚いですよ!』ってバチンと手を叩(たた)くような厳しい先生。『これはなめてかかってはいけないなあ』と思って、ちょっとやってみようかなというか」

―週に何回ぐらい通っていたのですか―

「ほぼ毎日。夜ご飯をそこで食べていたからね。それで三味線は小学校2年生からやっていたんだけど、三味線を教えてくれた先生の娘2人と3人で、お祭りの山車の上で『黄色いさくらんぼ』をやったりしていましたよ。

最初にやったのが小学校3年生のとき。『若い娘が、ウッフン』の『ウッフン』を俺がやるわけ。自分の娘も2人出ているのに、『ウッフン』は僕にやらせるの。そのほうがウケるだろうということで(笑)」

―お客さんの前でステージに立った感じはいかがでした?-

「夢中で何をやっているのかわからないよね。とりあえずはひいおばあちゃんが踊りを習ってくれっていうからやっているという感じだったけど、映画の世界とかを目指すには、基礎としてやっておかなくちゃいけないのかなぐらいの気持ちはあったんだと思う」

※仲雅美プロフィル
1950年11月9日生まれ。東京都出身。1968年、「東光夫」名義でミノルフォンから『しあわせ呼ぼう』と1969年に『若い旅路』の2枚レコードを発売。1970年、「仲雅美」に改名。1971年、ドラマ『冬の雲』で俳優デビュー。同年、『ポーリュシカ・ポーレ』が大ヒット。ドラマ『刑事くん』(TBS系)、連続テレビ小説『鮎のうた』(NHK)、映画『しなの川』(野村芳太郎監督)、映画『愛と誠』、映画『女たちの都~ワッゲンオッゲン~』(祷映監督)などテレビ、映画に多数出演。YouTubeチャンネルで『リモートクイズQQQのQ』などブログやホームページ、Twitterなどネット展開もおこなっている。

中学1年生

◆11歳のときに母親の店が全焼、口減らしで劇団に預けられ…

仲さんが小学校5年生のとき、横浜で母親が経営していた中華料理店が漏電が原因で出火し全焼してしまう。火事の後処理と仕事で母親がそれまで以上に多忙になったことと、口減らしのため、仲さんは劇団に預けられることになったという。

「おふくろは、横浜の長者町で、外国の兵隊さんのお土産用の生地屋をやっていたの。車の免許を取って、フォードに乗って仕入れとかやっていて、日本の生地を仕入れて外国人に売るお土産屋さん。

それで僕が小学校の5年生のとき、おふくろが中華料理屋を居抜きで買って、おじさん(母親の弟)連中に任せていたの。居抜きだから前の持ち主のネオンが残っていて、そこから漏電して火事になっちゃったんだよね。

その日は、僕が横浜・野毛山の県立音楽堂で『鷺娘』を踊って帰って来た日でね。その日の深夜。隣の家とその隣の家も半焼させちゃったから賠償責任になって。

今度はお店の整理と働いていた人間と僕と妹も食べさせていくのがちょっと大変という状態になって、口減らしのためもあって、僕は東京の劇団『新演舞座』の座長・市川雀之助先生の家に預けられて、妹はおふくろの知り合いに預けられ、そのまま養女になったの。それが小学校6年生のとき」

小学校6年生の夏前には横浜から東京の小学校に転校するが、夏からすぐに劇団の佐渡、新潟巡業が入ったという。

「転校したけど旅公演で学校には行けないわけ。小学校の場合は転校の手続きもあったり、夏休みもちょっと絡んでいる状態だったから、うやむやになったの。だけど、中学校時代は、夏休みとか冬休みを除いて、延べで7か月以上休んでいたかな」

―普通だったら進級できないですよねー

「そう。復帰前の沖縄にも3か月公演で2回行っているし、石川県のヘルスセンターにも2回。だから石川県の巡業のときには、仮転校みたいな形にして、石川県の中学校に一時的に籍を入れてもらって。あの当時は今と違って、そういうことができたんだよね。

ただ、沖縄の場合はどうしようもなかった。まだ日本に返還される前だったからね。だけど石川県のほうが先だったから、クラスの全員に輪島塗りの夫婦箸をお土産に買って来てね。

クラスが50人でだいたい男女半々だったから、2人1組にして箸を分けると安上がりになるじゃない(笑)。それで、男の子と女の子全員にあげたから、出席簿をつけるとき、先生が『中俣』(本名)って呼ぶと、『先生その人は出欠簿をつけなくていいんです』って、みんなが言ってくれて。

そのおかげでつけなくていいということになっちゃった。だから沖縄のときもそういうような感じで、いないけどいることになって助かりました(笑)」

小さい頃から日舞を習っていた仲さんは、踊りの素質もあり、あまり手がかからず、劇団での生活にもわりとすぐに馴染んでいったという。

「台本があるわけでなく、みんな口立てでひと公演打つのが一劇場だいたい15日間。1部と2部で、1日2演目として30演目くらいを回しながらやっているわけ。

それは『見て覚えろ』じゃないけど、だんだん覚えていくし、文芸部さんもいて座員組が結構しっかりしているの。当時は亡くなられた18代目中村勘三郎さんがまだ子どもで勘九郎さんだった時代で、7代目尾上菊五郎さんとか、有望な二世が小学校から中学校に上がるくらいなときに5人で『白浪五人男』をやったりして『子ども歌舞伎』が流行(はや)っていたの。

うちの劇団にも子どもが3人いたから、文芸部さんが、『玄冶店(げんやだな)』とか『三人吉三』とかをやらせるわけ。『おい、お富、久しぶりだなあ』、『そういうお前は』、『与三郎だ』ってね。文芸部さんは歌舞伎のことも知っているから動きも指導してくれるんだよね」

小学校6年生から在籍していた劇団『新演舞座』は、高校1年生のときに解散することになったという。

「『新演舞座』の4年間は、学費とか飲み食いは面倒みてもらったんだけど、給料というのはもらってないわけね。

だけど座長の雀之助先生が『これからは芝居と踊りだけでは食っていくことが大変だと思うから』と言って、歌のレッスンを受けさせてくれていて。

当時、雀之助先生が贔屓にされていた方で、浅草の『国際劇場』の支配人だった本間昭三郎さんが、作曲家として名が通っていた市川昭介先生を紹介してくれて歌のレッスンに通っていたの」

17歳 東光夫時代 祖父・中俣充志さんと

◆サッカーがやりたくて歌手デビューが1年遅れに

中学生のときには上原げんとさんの息子さんによるデビュー曲もできていたが、変声期になってその話はなくなったという。そして新たに遠藤実先生のところへレッスンに行くことになり、高校3年生、17歳のときに『東光夫』という芸名でデビューすることに。

「遠藤先生からデビューの話をされたのは高校2年のときだったの。僕はずっと劇団に入っていたからスポーツとかが全然やれなくて、高校1年のときに劇団が廃団になったから、サッカー部に入ったの。はじめての団体競技。それで高校2年の夏にレギュラーになれそうになったわけ。

だけどデビューしたらレギュラーになれなくなっちゃうから遠藤先生に話したら、先生も柔道をやっていたって言うから、『僕は今レギュラーになれるかどうかで、今しかそういうことはできないでしょう?』と言って、1年待ってもらったの。

-デビューされてどうでした?-

「遠藤先生に怒られるかもしれないけど、自分がそういうキャラじゃなかったのかもしれない。ミノルフォンからレコードを2枚、『しあわせ呼ぼう』と『若い旅路』を出したんだけどあまり売れなくてね。

当時、母親の父親、つまり僕の祖父が中俣充志といって、札幌の円山動物園や旭川の旭山動物園を手がけた有名人だったんだけど、応援してくれて、札幌の雪祭りや紋別の流氷祭りで歌わせてくれた。青春歌謡でしょう? 舞台が流氷の氷でできているんだけど、コートなんて着られないから寒くてガタガタ震えちゃってね。歌えるもんじゃないの(笑)。

3曲目も用意されていたんだけど、結局ボツになっちゃって、東光夫としてはまったくパッとしないままでしたね」

その後、日本大学に進んだ仲さんだったが、当時は大学紛争で1か月に1日講義があるかどうかだったにもかかわらず、授業料の請求だけは全額きたために中退。2年の年から芸能人を養成する「東宝アカデミー」に入学し、ダンスや歌、芝居を習うことにしたという。

「ちょうどその頃、祖父が北海道放送の局員で、クールファイブの『長崎は今日も雨だった』などヒット曲を多数手がけていた作曲家でもある彩木雅夫先生を紹介してくれて、あいさつに行ったら、『北海道と東京じゃ大変だから、チャーリー(石黒)さんを紹介するからチャーリーさんのところに籍を置いてくれ』と言われて。

それが19歳のときで、芸名を仲雅美にするんだけど、『仲』は本名の『中俣』の中に人偏をつけちゃおうということで『仲』。『雅』は、彩木雅夫先生の『雅』。それでチャーリーさんのペンネームの『城美好』から『美』で仲雅美。

19歳の夏までにはそういう話になっちゃって、チャーリーさんは僕を日本ビクターからデビューさせるつもりで、8月の後半に『ナイトショー』(フジテレビ系)の新人を紹介する『マンデー・フレッシュコーナー』に突っ込んでくれたの」

 

◆突然の俳優デビュー、『ポーリュシカ・ポーレ』が大ヒット

深夜に放送された『ナイトショー』のわずか数分の「マンデー・フレッシュコーナー」を見て、仲さんに目をとめたのが、映画監督でテレビドラマを数多く手がけた木下惠介さん。仲さんはドラマ『冬の雲』で俳優デビューすることに。

「木下惠介さんに『来年の1月スタートの自分が書き下ろした番組があるんだけど、お兄ちゃん役で田村正和を予定している。妹は大谷直子で、この次男坊の役をやってもらえないか』っていきなり言われたんですよ。

でも、その年の10月に歌手デビューの話もあったから、『ちょっと待ってください。今年の10月5日にデビューする話がまだはじまってないので相談させてください』と言ったんだけど、レコード会社は『やってみれば?』みたいな感じで乗り気なんだよ(笑)。

それでやることになったんだけど、キャストがすごいの。お父ちゃんが二谷英明さん、お母ちゃんが久我美子さん、お兄ちゃんが田村正和さん、妹が大谷直子さん、お兄ちゃんの恋人が大原麗子さん。僕の大学の先輩が小野寺昭さん。妹の恋人が近藤正臣さん。お父ちゃんの前妻が市原悦子さん。その子どもが小倉一郎さん。だから、一郎とはそこで会ったの」

―豪華なキャストですね。撮影はいかがでした?-

「木下先生が『周りがしっかりしているから、台本の一字一句とか神経質にならないで、今の自分に近づけるような形でやって。逆に役に近づけようとしないで、自分だったらどういう風に話すかみたいな感じで。“てにをは”は変えてもいいから全然心配する事はない』って。はじめの方でもう歌うシーンがあったから、僕になったのはこれかなって(笑)」

―『ポーリュシカ・ポーレ』が大ヒットに-

「『冬の雲』が1971年の1月から放送がはじまって、BGMとしてロシア民謡の赤軍合唱団の原盤が使われていたんだけど、『ワッ、ワッ、ワッ、ワーワッワ~』という感じで歌詞もなくてスキャットなの。

その原曲が入っているLPがオリコンのヒットチャートに上がって来ちゃって、これはドラマの影響しかないの。それで、僕は日本ビクターだけど、その兄弟会社から、あの曲の日本バージョンでデビューさせたい新人がいるから、ジャケット写真に『冬の雲』の僕の写真を使いたいと言って来たんだって。僕のテーマ曲みたいになっているから。

それで日本ビクターが、『ほかの人が歌うのはとんでもない。あいつに歌わせろ』と言って僕にきちゃったの(笑)。

ドラマがはじまったのが1月で、最初は1クール(13本)だったのが2クールに延びて、それからもう一回延びて全部で33本やったんですよ。

『ポーリュシカ・ポーレ』を出したのは8月かな。中盤過ぎてから。じつは、(小倉)一郎にも『ポーリュシカ・ポーレ』の話があったって、一郎が言ったのよ。

『ポーリュシカ・ポーレ』はロシア民謡だけど、もう一つドイツ民謡の『苦しき夢』が結構かかるんだけど、それをギターで弾いていたのが一郎なわけ。

木下さんの弟さんの木下忠司さんが『冬の雲』の音楽をやっていて、木下忠司さんから『ポーリュシカ・ポーレを日本語で歌ったらどうか』って言われたんだけど、一郎は『僕は2足の草鞋(わらじ)ははきません』って断ったんだって。『あのときやっておけば良かった』って言っていますよ(笑)」

―撮影はスムーズにいきました?-

「当時の木下プロはすごかったんですよ。リハーサルが丸2日、それで撮りが2日。4日かけて1時間番組を撮っていたんだよね。

お昼になると、近くの割烹料亭からお弁当が届いて、3時になるとTBS会館の地下にあった『トップス』からケーキとコーヒーが届くという感じだったの。

それで10月くらいから撮りはじめて3本くらいストックができたときに、木下さんが『顔合わせも兼ねてみんなでメシを食いに行きましょう』ということになって、スタッフとレギュラーの連中合わせて80人くらいいるわけ。

それで放送がはじまる前に、1人ずつに新幹線のチケットを渡して京都に肉を食べに行ったの。シングルで富士屋ホテルに全員泊めて。そういうことをやっていたんだよね」

―今の時代には考えられないことですけど、ドラマも高視聴率で―

「夜の10時スタートなんだけど、29%いきましたからね。『30%超えたらみんなでハワイに行っちゃおうね』って言っていた。木下プロの言うことだから、それは本当なわけよ。

だから『ハワイに行けるかもしれない』ってみんな期待していたんだけど、30%は超えられなかったから行けなかった。打ち上げはヒルトンで豪勢にやりましたけどね(笑)」

ドラマと『ポーリュシカ・ポーレ』の大ヒットで一躍若手スターとして注目を集めた仲さんは、俳優、歌手として多忙な日々を送ることに。次回は映画『同棲時代-今日子と次郎-』、映画『愛と誠』の撮影エピソード、3億円の借金を抱えることになった事業の失敗についても紹介。(津島令子)

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