篠原ともえ“シノラー”は魔法のアイテムの結晶だった

公開: 更新:

90年代後半に「シノラー」として一世を風靡し、“アーティスト系アイドル”の元祖的存在だった篠原ともえさんが、今年デビュー20周年を迎える。

現在、タレント、女優、そして歌手の松任谷由実のステージ衣装を手がけるデザイナーとしてなど、多方面に活躍する篠原さんが、この20年を振り返り、“シノラー”が生まれたきっかけや、ユーミンとのエピソード、さらには、篠原さんが思い描く「未来の私」について語っていただきました。

――“シノラー”が生まれたきっかけは?

芸能界に入り、まずテレビに出ることで夢が叶っているということは一瞬一瞬で感じていました。でも、この世界の中で、もっと私のことを見てもらいたいと思い、徐々に出来上がっていったのが"シノラー"です。もっと見てほしいから、顔にシールを貼ってみよう。背中がシンプルに見えないように、ランドセルを背負ってみよう。前から見るとランドセルがわかりにくいので、羽を生やしてしてみよう……。前髪パッツンは中学生の頃からだったのですが(笑)、あのお団子頭は、自分のテンションをあげてくれるスタイルでした。そういったアイテムや髪型などで、自分に魔法をかけていくうちに、浮かび上がってきたのがシノラーで、自分自身をデザインして遊んでいたような感じの中から生まれたものでもありました。

――表参道などシノラーチルドレンが出現する大ブーム。ご自身ではどのように感じていましたか?

原宿に買い物に行った時に、シノラーの分身がいっぱいいて、「腕輪ください~」って篠原の話し方で声をかけてくれたのは嬉しかったです。そこでアイテムの交換会みたいになり、改めてシノラーがブームになっているのを感じました。

――シノラーアクセサリーは、どんなところにこだわりがありましたか?

当時、お店に派手なアクセサリーが今ほど売ってなかったので、自分で100円均一で縄跳びを買って、腕輪に改造したりして作っていました。そうすると、一週間後には、それが原宿で商品として売られはじめていて(笑)。当時は、原宿のカルチャーと追いかけっこしていた感じもありました。

――“シノラー”からファッションデザイナー・篠原ともえに!

みなさん驚かれるのですが、デザインをしていきたいというのは、シノラーの時代から実は叶えたいと思っていた目標ですし、“今”の私は、当時からイメージをなぞっている“今”でもあります。

――2013年~2014年にかけてコンサートホールで行われた松任谷由実さんの衣装デザイナーにも抜擢、この経験から学ばれたことは?

由実さんとお仕事をさせていただいて、スペシャルな体験をさせていただきました。ステージ上の由美さんの動きなどを考えて衣装をデザインするのですが、由美さんは、どういうポーズを取るとその衣装が一番美しく見えるかを瞬時にとらえて下さり、ステージに立った瞬間、一番美しいシルエットで立ってくださったんです。“魅せる”というお仕事のプロフェッショナルな方と、ステージ上でのコミュニケーションが取れたような体験させていただきました。

――デザインの仕事をする上で特に意識していることは?

ヘッドドレスの衣装を替えようとステージ上の由美さんのところに行ったときに、「ともえちゃん、とことんこだわってね!」って声をかけてくださったことがありました。デザイナーとして“あなたの仕事を信頼しているから”というメッセージをくださったように感じて、それが凄く嬉しくて。なので、“細部にまでこだわること”は凄く意識して努めました。そうしてできた衣装を由美さんに着ていただくと、衣装に命が宿ったように動いてくださる。“見せる”から“魅せる”衣装に生まれ変わる、由美さんだからこそ味わえた体験でした。

――デザインの勉強はどのように?

服飾の大学に行きまして、感覚だけでデザインするのではなく作る技術を学びました。もちろん、感性の学びも大切ですが、技術の学びがあると、もっとワクワクするような衣装が作れる。その力を身につけたかったので、大学での勉強は凄く大きな力になりました。由美さんの衣装をデザインさせていただけたのも、ここでの学びが大きかったです。はじめに、(松任谷)正隆さんから由美さんのデザイナーのお仕事の話をいただいき、そこでデザイン画を100枚くらい描いてプレゼンテ―ションしました。それができたのも、やはり学校に通って勉強したからだと思います。実は今、仏像に興味があり、仏像の古典彩色を習っているのですが、学び続けることで、また自分の感性が豊かになっていく。星でもデザインでもどんなジャンルでも、学び続けて行くことが、自分を育ててくれることになると信じています。

PICK UP