『大豆田とわ子と三人の元夫』が持てる者たちを主要人物に据えたのはなぜか

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大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系、毎週火曜21:00~)がファンからの熱い支持を伸ばし続けている。

本作を手がけるのは、脚本:坂元裕二×プロデュース:佐野亜裕美という『カルテット』(TBS系)コンビ。『カルテット』もまた坂元節の効いた、深みのある大人のドラマだった。

ただ、本作と『カルテット』で大きく違うのは、主人公たちの環境だ。『カルテット』は音楽という愛するものを持ちながら、好きなものを仕事にはできなかった四人の奏者の物語。その人気が4年経った今も色褪せないのは、四人の奏者が「ドーナツホール」という名前の通り、それぞれに欠けたところのある、けれど魅力的なキャラクターだったからだ。そして、その欠けたところを否定することなく、そのまま生きていけばいいというふんわりとした肯定に、見る人は力をもらった。『カルテット』は社会にうまくなじめない、何をしてもちょっと周りからはみ出してしまう人たちに、特別に突き刺さるドラマだった。

一方で、『大豆田とわ子と三人の元夫』は『カルテット』ほどわかりやすく欠けた人たちは出てこない。主人公・大豆田とわ子(松たか子)は住宅建設会社の社長だし、1番目の夫・田中八作(松田龍平)は奥渋谷にあるオシャレなレストランのオーナー兼ギャルソン。2番目の夫・佐藤鹿太郎(角田晃広)は売れっ子のカメラマンで、3番目の夫・中村慎森(岡田将生)は弁護士。みんな生活は裕福そうだし、住んでいる部屋はとびきりオシャレだ。

3番目の夫・中村慎森(岡田将生)、とわ子(松たか子)
3番目の夫・中村慎森(岡田将生)、とわ子(松たか子)

もしも『大豆田とわ子と三人の元夫』と『カルテット』が同じ世界線だったら、きっととわ子たちと「ドーナツホール」の四人は交わらない。その象徴が、とわ子と同じマンションに住む五条(浜田信也)だ。五条はプロのオーケストラ指揮者で、国立の劇場でタクトを振れるくらいには成功している。「志のある三流は四流」と言われた「ドーナツホール」とは住む世界が違う。そして、そんな五条と同じマンションに住めるとわ子もまた「ドーナツホール」とは別世界の住人なんだろう。

『カルテット』で意に沿わぬ仕事に疑問の声をあげる「ドーナツホール」の面々に、担当スタッフが「っていうか、仕事だし」とぶった切る場面があった。この対となるのが、とわ子が設計部の三上(弓削智久)に告げた「うちは作品をつくっているんじゃないよ。商品をつくっているんだよ」という言葉だろう。とわ子は、青臭さから抜けきれないでいた「ドーナツホール」とは対岸にいる人物だ。

【ドラマでは描きづらい、持てる者の生きづらさ】
本来、こうした日常を描いた作品で、主人公や主要人物の生活レベルをあまり高水準にすることは得策ではない。なぜなら、視聴者の共感を生みにくいからだ。わかりやすい例を挙げると、『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)というドラマがある。説明不要の人気作だが、今年放送されたスペシャルドラマでは、連ドラ時にはなかった反応が見られた。

それが、主人公であるみくり(新垣結衣)と平匡(星野源)の夫婦に向けられた視聴者からの視線だ。連ドラではみくりは院卒でありながら派遣切りに遭い、無職。平匡は優秀なシステムエンジニアであったが、恋愛経験が皆無。それぞれ労働市場/恋愛市場で弱者とされる存在であり、そんな不完全さが視聴者の共感を誘った。

しかし、スペシャルドラマではみくりと想いが通じ合ったことにより、まず平匡が恋愛市場から勝ち抜け。みくりも無事に正社員の職を得たことから、二人はいわゆるパワーカップルに。共働きだが、頼れる実家があり、家事代行や調理家電にも迷わず投資できる経済力を持った二人は、視聴者からすると少し遠い存在となり、連ドラ時に比べて距離を感じた視聴者も少なくなかった。

今の格差社会では、持たざる者の生きづらさは共感や賛同を得やすいが、持てる者の生きづらさは反発を生みやすい。それでも、『大豆田とわ子と三人の元夫』が持てる者たちを主要人物に据えたのはなぜか。きっとそれは、どんなに恵まれているように見える人だって、しんどい思いもしているし、うまくいかないことはあるし、もうダメだと思う夜がある。そのことを改めて描いておきたかったからのような気がする。

特に顕著なのはやっぱりとわ子だろう。とわ子は社長になったことで、それまでフランクに付き合っていた同僚たちから気を遣われるようになり、時には共通敵として恨まれるようになる。胸に手を当ててみれば覚えがある人も多いはずだ。私たちは上司を悪者にすることで、結束を深める。何かあると、すぐに「上は現場をわかっていない」と声を荒げる。じゃあ、自分は上のことをどれだけわかっているのかということを棚に上げて。

「あの人は離婚歴があるから」とレッテル貼りすることに対しては、そういうことはよくないと思えても、「あの人はお金持ちだから」と線を引くことについては、そうだよねと安易に見過ごしてしまう部分がある。それくらい持てる者の生きづらさには鈍感だ。

とわ子(松たか子)
とわ子(松たか子)

【持てる者/持たざる者の分断の前で】
実際、『大豆田とわ子と三人の元夫』でも、とわ子の生きづらさより、仕事が長続きせず、恋愛が面倒くさいと言う綿来かごめ(市川実日子)の生きづらさの方が反響が大きかったように思う。『カルテット』で言うと、かごめは「ドーナツホール」側の住人だ。社会のルールが理解できない。だから、視聴者も感情移入がしやすかった。逆に、とわ子はその離婚歴でさえ、「結婚できたんだからいいじゃないか」「三人もの男性から選ばれて羨ましい」というやっかみの対象になりかねない。オーガニックなホストの八作が慎森や鹿太郎からひんしゅくを買ったように。

でも本来、生きることのしんどさはみんなそれぞれあって。いかなる理由があろうと、その苦しみが不当に軽んじられることがあってはならない。とわ子が経済的に成功しているのは、前オーナーから直々に指名されるほどの信頼を勝ち得ていたからだし、その社長業自体、とわ子がやりたかったことではない。取引先に対して苦手な交渉をしているときより、家で図面を引いているときの方が、とわ子はよっぽどいい顔をしていた。

とわ子の社長業に対する「辛いもん」という弱音をかごめは「でも、できてる」と遮った。もちろんそれはかごめなりの激励なんだけど、自分の抱えている苦しみをああやって無効化されるのはしんどい。できているのは、頑張っているからだ。努力をしているからだ。でも、その努力を口にすることさえ、今の世の中は「努力できる環境がある時点で恵まれている」と封じてしまう。地獄なんて誰かと比べるものでもないのに。できていても、辛いものは辛いのだ。

コロナ禍以降、こうした持てる者/持たざる者の分断は一層深くなった。深い溝を挟んで対立した両者が火炎瓶を投げ合うような光景を目にする機会が現実にも増えた。そんな今だからこそ、持てる者の生きづらさを描いたドラマは意味があるように思う。

とわ子は自身の母親の葬儀の直後に、遺灰をリュックに入れて、社長就任のあいさつをした。親友であるかごめの葬式の日も、葬儀が終わってからちゃんと会議に参加した。やっぱりとわ子はできてしまう人なのだ。でも、そうやってできてしまう人ほど、自分の辛さを誰かに見せにくい。かつては母親やかごめに、弱い自分を見せられた。でも、もう二人ともとわ子のそばにはいない。きっとここからのとわ子はもっとしんどいはずだ。

だから、どうか穴ぼこに落ちる前に、とわ子の生きづらさを誰かが拾い上げてほしい。それが、三人の元夫なのか。それとも、オダギリジョー演じる謎の男なのかはわからないけれど。気丈に見えるとわ子だが、心の中は「ひとりでも大丈夫なんだけど、誰かに大事にされたい」と言った少女のままなのだから。
(文:横川良明)

謎の男(オダギリジョー)
謎の男(オダギリジョー)

<第7話あらすじ 5月25日放送>
かごめ(市川)の死から1年、とわ子(松)は自宅で一人暮らしを始めていた。高校に進学した娘の唄(豊嶋花)が、通学しやすい父・旺介(岩松了)の家に引っ越したからだ。娘がいない寂しさを抱えながらも、生活を楽しもうと試行錯誤するとわ子は、ある日、公園で“謎の男”(オダギリ)と出会う。

そんな中、とわ子はしろくまハウジングのオーナーが外資系ファンドに会社の株を売却しようとしていることを聞かされる。もし会社が外資の傘下になって利益重視の経営に変わると、コスト削減のために人員整理が行われるかもしれない。会社としてのこだわりや職人気質の社員たちを守るためにどうすればいいか悩むとわ子を心配し、慎森(岡田)、鹿太郎(角田)が続けざまにとわ子のマンションを訪れる。一方、八作(松田)はレストランの仕事を休み、一人で旅に出ていた。

とわ子(松たか子)、謎の男(オダギリジョー)
とわ子(松たか子)、謎の男(オダギリジョー)

後日、唄への届け物のために外出したとわ子は“謎の男”と偶然再会する。夢中になれることや仕事についての会話で徐々に打ち解けていく二人だったが、ひょんなことから話題はかごめのことに。すると、とわ子の口から、ずっと胸に秘めていた親友への思いが止めどなくあふれていき……。

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