川淵三郎「怒られてしまうけど…」歴代ルヴァン杯決勝前に頭をよぎった本音を告白

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国内サッカー3大タイトルの1つ、YBCルヴァンカップを、テレビ東京で10月22日に放送されたサッカー番組『FOOT×BRAIN』(毎週日曜11:00~)で特集。初代Jリーグチェアマンの川淵三郎とヤマザキビスケットの飯島茂彰社長の対談が実現し、25年目の大会について語り合った。

ルヴァンカップは、1992年から25年にわたりヤマザキビスケットがスポンサーを続けているJリーグのカップ戦。同一企業による協賛で世界最長のカップ戦としてギネス世界記録にも認定されている伝統ある大会だ。

対談で川淵は、1993年のJリーグ発足を前に「多くのクラブ関係者から賞金の出る大会を作って欲しいと強行に言われた」と明かし、自身も「サッカーには、天皇杯、リーグ、そしてリーグカップ。この3つのタイトルは必要不可欠」と考えていたという。しかし、リーグカップの動向が決まらないままにJリーグ開幕が迫り、川淵はスポンサー獲得に奔走。その時、手を挙げてくれたのが飯島社長だった。川淵は「助かったと思いました。僕としては足を向けて寝られないくらいの恩義を感じている」と感謝の思いを改めて口にした。

一方、どうして飯島社長はスポンサーに名乗りを上げたのか? 当時、日本のスポーツでプロ化されていたのはプロ野球だけで、ほかにプロ化できるのは野球以外にサッカーしかないと感じたという。その考えに大きな影響を与えたのが、60年代はじめに仕事でイギリスに行った際に観戦したマンチェスター・ユナイテッドの試合。その時のことを振り返り「すごいスポーツだなと。その試合を観て感動したことがあった。サッカーが最大可能性のあるスポーツだという感じを受けていた」と、サッカーに目を向けた理由を明かした。

それでも、川淵の悩みは尽きなかった。平均観客動員数が2万人弱あった94年に比べ、97年には1万131人まで激減したこともあり、「飯島社長にこれ以上お金を出していられないと判断されたら終わりだった」と胸中を告白した。しかし、飯島社長は「そのあとワールドカップに行けるようになった。それでJリーグが元気づき、勢いづいた。当時チェアマンだった川淵さんをはじめ、リーグを維持・発展させることに努力させている姿に感銘を受けていた」とリーグ発展に寄与したいという思いでスポンサーを続けてきたことが明かされた。

また、2008年には前年のリーグ戦で降格の危機に瀕していた大分トリニータが奮起して決勝へ進出。この一戦には2人も特別な思いがあったと話しはじめる。川淵は正直に「人気のない地方のクラブに勝ち上がって欲しくなかった。決勝の国立競技場は満杯であってほしいじゃないですか? こんなこと言ったらクラブに怒られるけど、当時は真剣にそう思いました。でも、大分が準決勝で勝ってしまい、決勝には5万も入らないと心配していた」と当時の胸の内を明かしたが、心配は杞憂に終わったという。この試合には、大分から1万人以上のサポーターが国立競技場に駆けつけ、大分側の客席を青く染めたのだ。この時のことを飯島社長も振り返り「あれは本当に嬉しかったですね。その後の決勝戦に進出するチームからも、大分が一杯にしたんだから、自分たちも一杯にしなければいけないという気概を感じました」と笑顔で語った。

そして、ルヴァンカップに欠かせないのが1996年に創設された「ニューヒーロー賞」。23歳以下の選手に贈られるこの賞を受賞した選手の大半が日本代表になっている。川淵も「ルヴァンカップの新人賞の価値というのは若手選手が活躍する場を与えて貰えること。それこそがルヴァンカップが持つ価値だと思う」と語り、飯島社長も「記者の方の推薦で決まっている賞で、実際にゲームで活躍している選手が貰っている。この賞を作りたいと言われた川淵さんの先見の明が良い意味で働いている。スポンサーとしてはこのまま続けて、ゲームを隆盛にしていただければと思っています」と、今後もJリーグと一緒になって日本サッカーを支えていくと約束した。

今年のニューヒーロー賞は、セレッソ大阪と川崎フロンターレが初タイトルを懸けて激突する、11月4日(土)13時5分キックオフのルヴァンカップ決勝を前に発表される。

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