中井貴一、“盟友”と“若手”それぞれとの共演で感じた「愉しさ」とは?

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俳優の中井貴一主演の映画『グッドモーニングショー』が10月8日より全国公開。このほど中井にインタビュー。1983年から97年にかけて放送された人気ドラマシリーズ『ふぞろいの林檎たち』で濃厚な時間を過ごした時任三郎との久しぶりの共演、演技派若手俳優として存在感を示す濱田岳との臨場感あふれる撮影について振り返っていただいた。

本作は、『踊る大捜査線』の君塚良一が監督・脚本を手掛け、朝のワイドショー「グッドモーニングショー」のメインキャスター澄田真吾(中井貴一)を中心に描いたオリジナルコメディ。妻・明美(吉田羊)と息子の言い争いに巻き込まれ、職場ではサブキャスターの小川圭子(長澤まさみ)に“身に覚えのない交際”を発表しようと迫られ、プロデューサーの石山聡(時任三郎)からは番組の打ち切りを告げられるなど、まさに踏んだり蹴ったり……。

そんな中、都内のカフェに爆弾と銃を持った男が人質を取って立てこもるという事件が発生。どういうわけか犯人・西谷颯太(濱田岳)から「澄田を呼べ」と要求される。過去のトラウマから現場に出ることを拒否する澄田だったが、石山Pからの命令、番組視聴率のため、というより圭子の暴露を防ぐため、デマカセで現場に向かうことをカメラに向けて宣言してしまう。現場を訪れると防爆スーツにカメラとマイクを仕込まれ、武装した犯人とマイクひとつで対峙することに……。果たして澄田は、色々な意味で無事に放送を終えることが出来るのか? 前代未聞の生放送に挑んでいく。

<インタビュー>

――久しぶりとなる時任さんとの共演はいかがでしたか?

僕が21歳で時任さんが25歳だったのかな。当時はそれほど知名度があったわけでもなく、あのドラマを通して多くの人たちに知っていただくことになりました。あの頃よく皆で「俺らってこの仕事をずっと続けていけるのかな?」という話しをしていたんです。あれから33年経って、同じスクリーンの中に立てるのが嬉しいなって。そんな感慨がありました。

――言わば盟友のお二人ですが、どのような感覚で共演されるのでしょうか?

負けられないとか、勝負だとか、そんな感覚はなかったですね。二人とも様々な経験をしてきて変化してきたと思いますが、基本的な“核”は変わっていないんですよ。将棋で言うなら、小学生の時に指していた二人が、大きくなって名人戦で指すときに「こいつの好きな手はこれだな」っていうのはわかるんですよね。だから今回一緒に芝居していても「こういう言い回しで来るんじゃないかな?」と思っていたシーンは「ほら、そうくるだろ!」というのがありました。

――映画の最後のシーンの撮影について時任さんから「お互いの素に近い表情があった」と伺いました。

だいぶカットされた部分ですけどね。時任さんには言わなかったのかもしれないですけど、監督からそうやってもらいたいと言われていたんです。あそこはすべてが終わって一番ホッとする2人の会話でしたから、昔の感情に近かったと思います。

――それは時を刻んできた俳優同士だからこそ生まれた感情ということですか?

そうですね。時を刻むって意外と良いんですよ。年を取るとか加齢をするってネガティブに捉えられがちですが、ちゃんと生きてきて年を刻んでくると言うのは中々乙なことだと。いろんな経験値がついてくると、あんなにトゲトゲしかったヤツが、こんなに良い感じに丸くなっていたりとか、昔、鉄板のように跳ね返していたものが、いつの間にかスポンジみたいに吸収するようになっていたりとかするんです。それが役者同士だと、芝居を通して相手の本質を見られるんですよ。時任さんとは時折連絡を取り合っていましたが、芝居を一緒にしたことによって、いろんな経験してきたんだなって手に取るようにわかって面白かったですね。

――一方、後半は濱田さんとの臨場感溢れる芝居が繰り広げられます。

もともと台本を読んでいたときは、そんなにテンションが上がっていく感じではないと思っていました。現場に入って監督が、ここは激しさを出していきたい。中井さんと濱田君の感情で良いけど、終局的には澄田の息子とダブっていき、親が子どもを叱る、説き伏せていくということが澄田の中に現れるようにしたい。そして、説得しようと思って言っていることが、いつしか自分の本心になっているということをやりたいと。もちろんそこには濱田君のお芝居があって、それに僕が反応していくことになる。そこで生まれたのが、ああいう芝居でした。

――とても臨場感と緊迫感のあるシーンでした。共演されて感じた濱田さんの芝居の特徴はどのような所だと思いますか?

濱田君の凄さというのはナチュラリズムとリアリズムの表現にあると思います。映像というかショーになったとき、自然であることがリアルを表現できるかと言ったらそういうことでもない。リアリズムというのはどこかでデフォルメをすることで、見ている側により伝わることがあるのですが、濱田君はそのバランスが素晴らしい。彼のやってないように見せながらすごく芝居をしているという感覚がすごいなと一緒にやっていて感じました。

――その凄さを感じた瞬間を教えてください。

最初にテストをしたときに、自分の思っていた西谷の動きと違ったんです。「なるほど、そういう捉え方をしたのか」って。これは役者同士にしかわからないかもしれないですが、会話劇の中で「~~でした」の「で」で食うのと「し」で食うのと「た」で食うのとでは全然意味合いが変わってきます。そのちょっとした違いによって感情が揺れるのが人間なんです。役者のタイプによって、まったく揺れずにやりきる人もいますが、濱田君はそこですごく揺れることができる。そうすると役のそこからの色がまた変わっていく。役者に理論派と感性派がいるとするならば、感性派なんだろうなと強く感じました。

――中井さんは感性派ですか? 理論派ですか?

僕は完全に感性派です。役者というのは机上で物事を考えて、ある理論を持って感情の進み具合を考えて、ここで頂点に達して、ここからどう流していくのか……といった様に考えて、ある意味で自分を追っていくわけです。だけど、そこには人が介在していない。そこで、敢えてその理論を一度捨てて現場に入り、相手の球を真っ白な状態で受けて立つということはすごく大切です。そこからフレキシブルに感性でやっていく人と、理論を通して行く人の違いはありますが、ベースさえ持っていれば、相手の反応によって揺れるのは人間ならば当たり前だと思います。

――感性のぶつかり合いの芝居は面白いですか?

面白いですよ。だからちゃんと相手の言っていることを聞いてるし、そこの現場で人間が生きていることがわかるし、とても楽しいですよね。

――その感覚はどうのように身につけられたのですか?

基本いい加減なんです。きっと濱田君もいい加減なんですよ(笑) 芝居を相手とするときに、具体的なもの、実像とは芝居をしたくない。その役が背負っている物がそれぞれあって、そこに対して芝居をしたい。それは目に見えないモノだから、感性を研ぎ澄まさないとなかなか見えてきません。ガチガチにこちらが理論武装していると全くその背景が見えてこない。それを僕は“風を感じる”と言うのですが、現場の風を感じて、匂いをかいで、そこに存在することによって、それが明確に見えてくるという状態を作る。そうしていく中に生まれてくる物だから、常に自分は揺れている。そういう意味でいい加減なんだと思います。

――最後に、この作品を通してメッセージをお願いします。

人間は必死に生きていると何かが生まれてくると思うんです。すごく急いでいるときに限って信号が全部赤だったり、踏切が上がらなかったりするじゃないですか(笑) そんなときでも必至になればなんとかなるものです。そのスパンが長くて、闇の年数を過ごしていても、そこを必至に生きていれば必ず扉は開けてくる。ちょっとデフォルメされていますが、澄田という男を通して扉が開いていく様子を笑いながら観ていただけたら嬉しいです。

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