『春になったら』人生がうまくいかない人たちのために「春」という季節はある

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『春になったら』人生がうまくいかない人たちのために「春」という季節はある

生まれることが尊いように、死ぬこともまた等しく尊い。そんな真理のようなものをようやく心から実感できた気がした。

それは間違いなく『春になったら』(カンテレ・フジテレビ系)のおかげだ。そのフィナーレは、どこまでもこのドラマらしく、優しく温かなものだった。

人生の最後のページを閉じる瞬間は感謝と祝福がふさわしい

私事だが、このドラマの放送が始まった頃、ちょうど僕の父もまた癌と闘っている最中だった。幸い発見も早かったことから早々に手術を行うこととなり、先日、四度にわたる抗がん剤治療も終了。現在は定期検査を受けながら再発予防に取り組んでいる。

そんなこともあって、『春になったら』は自分の中で特別なドラマだった。いつか親がいなくなる。とても当たり前の、だけどつい目を逸らしてしまいがちな現実と向き合うきっかけをくれたドラマだった。

最終話を終え、いちばん心に残っていることは何かと言うと、死は決して怖いものではないということ。もちろん永遠の別れにはなる。会いたいときに会えないのは寂しい。でも、それもまたほんのちょっと状態が変わっただけのことなのだ。

肉体という形は滅びてしまうけど、記憶という形のないものはずっと変わらずに残る。胸の中で生き続ける。引き出しを開ければ、いつでもそれを手に取ることはできるし、話しかければ応えてもくれる。いなくなるけど、いなくなるわけじゃない。矛盾しているけど、そう形容するしかない状態に移行するだけなんだと、すんなり腑に落ちた。

だからもしいつか僕も大切な人を見送る日が来ても、決してそれを悲しいだけのものにしないでいようと思ったし、逆に僕が見送られる側に回ったとしても、あまり怖がらずに受け入れようと思った。劇中の言葉を引用するなら、“旅立ち”。旅立ちの日は、いつだって晴れやかなほうがいい。

椎名雅彦(木梨憲武)にとっても、瞳(奈緒)にとってもそうだった。結婚式兼生前葬。新しい家族が生まれる瞬間は拍手が似合うように、人生の最後のページを閉じる瞬間もまた感謝と祝福がふさわしい。雅彦のために集まった人たちは、みんな笑顔だった。誰も辛気臭い顔はしない。

謎だったケイト(オリビア・バレール)という外国人は、雅彦が妻・佳乃(森カンナ)とのデートで偶然知り合ったシンガーだった。雅彦が自身の葬儀に流すために、英語を勉強してつくってもらった曲。それはすなわち遺されたすべての人に贈る雅彦からのメッセージだった。

「この世界では永遠なんてものはないけれど 悲しまないで」

そんな1行から始まるシンプルな歌詞は、雅彦らしい明るく前向きなものだった。力強い歌声に乗せて、雅彦と瞳にとって関わりの深い人々の交流が描かれる。みんな、よく笑い、よく話す。冠婚葬祭のような形式張った場はあんまり得意ではないけれど、それでもいいなと思うのは、こんなふうに自分の大好きな人と大好きな人が一緒にいるのを見られるところだ。それだけで、大切な宝物を抱きしめて眠る子どもみたいにハッピーな気持ちになれる。

唯一、姉のまき(筒井真理子)だけはこらえきれず、雅彦の肩に顔を隠すようにして泣いているのだけど、そんなところも胸にジンと来た。筒井真理子は最後の最後までいい仕事をしていた。このファンタジーのように美しい物語に、人間臭いリアリティを添えていたと思う。

雅彦の最期は見せないのも良かった。まきのもとに届いた、瞳からの着信。それだけでちゃんと伝わる。乗り主をなくした自転車がせつなくて、その静けさだけで十分に心に迫るものがあった。過剰なことはしない、というつくり手のセンスがこのドラマには一貫してあったと思う。

第1話の冒頭で登場した佳乃の出産映像も、雅彦からの最後のプレゼントとして瞳の手に渡り、命のバトンリレーを印象づける。命とは、こんなふうにたくさんの人に支えられ見守られ、誕生する。同じように、命とはたくさんの人に愛され見送られ、幕を閉じる。そして、遺された人々はまたそれぞれの日常を、誠実に、懸命に、生きていく。その繰り返される営みが、思わずいとおしくなるようなエンディングだった。

人は、上を向きながらずっと悲しい顔をしてはいられない

「ほら 春はもうすぐそこ 全てうまくいくよ」

ケイトの歌にはそう綴られていた。春とは、不思議な季節だ。何かが始まる予感が、そこに息づいている。だから、春が来るだけで心がウキウキとする。根拠はないけど、なんだかいいことが起こりそうな気がする。

生活は困難で。社会は理不尽で。この物語の登場人物たちみたいにみんながみんな優しいわけじゃないし、自分だって常に笑顔でいられるわけではない。そんなことはよくわかっている。それでも、「春だから」というだけで、ずっと俯いていた目線を上げることはできる。

桜の花が木々に咲き誇るのは、僕たちに上を向いて歩かせるためかもしれない。人は、上を向きながらずっと悲しい顔をしてはいられない。上を向いていれば、自然と笑顔になる。それは、見上げた目線の遥か向こう、空の彼方にいなくなってしまった誰かの存在を感じるからかもしれない。見守ってくれる人がいる、というだけで僕たちは元気になれる。人生がうまくいかない人たちのために「春」という季節はあるんじゃないだろうか。

そして、もし「春だから」という理由だけで笑顔になれない人がいたとしても、自分を責める必要なんてない。そんな人にもきっとこのドラマはこう言ってくれるだろう。

「ドンマイドンマイ、僕は好きだよ」と。

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